マーケティングの本質――企業の中にいる「顧客の代弁者」
企業は、どうしてもビジネスセントリックになりがちです。何を売りたいのか。どの製品を伸ばしたいのか。どの機能を伝えたいのか。どの数字を達成しなければならないのか。
それは企業として当然のことです。しかし、お客様は、企業の組織図も、社内の事情も、私たちが達成すべき目標も知りません。お客様が見ているのは、もっとシンプルです。
「これは自分にとって何の意味があるのか」 「自分のどんな問題を解決してくれるのか」 「なぜ、他ではなくこのブランドを選ぶべきなのか」
だからこそ、マーケターは企業の中にいる「顧客の代弁者」でなければならないと思っています。お客様が会議室に座って、直接意見を言うことはありません。だから私たちが、お客様の側からビジネスを見る。
「私たちは何を言いたいのか」ではなく、「お客様にとって何が重要なのか」。 「この製品の何がすごいのか」ではなく、「お客様のどんなペインポイントを、どう解決できるのか」。
人を理解し、その視点を企業に持ち込む。そして企業が持つ技術や価値を、もう一度お客様の視点から見つめ直す。このテクノロジーは、人にとってどんな意味を持つのか。どんな不便や不安を解消できるのか。どんな可能性を広げられるのか。企業の言葉をそのまま届けるのではなく、お客様にとっての意味を見つけ、それをブランドの声へと変えていく。そこに、マーケターの重要な役割があります。
人を深く理解するからこそ、複雑なことをシンプルにできる
顧客視点を持つということは、単にお客様に寄り添うことではありません。その視点を起点に、コミュニケーションのObjectiveを徹底的に明確にすることです。誰に、何を、どこで伝え、その結果として何を感じ、どう行動してもらいたいのか。Objectiveが明確になれば、何を伝えるべきかだけではなく、何を伝えないべきかも見えてきます。企業は、多くのことを伝えたくなります。製品にはたくさんの機能があり、技術には長い開発の歴史がある。しかし、お客様にとって重要なのは、そのすべてではありません。だから私は、マーケティングは「たくさん伝える仕事」ではないと思っています。
お客様にとって最も重要なことを見極め、ブランドが提供する価値を、最も分かりやすく、最も効果的な形で伝える。そして、それを単なる情報ではなく、人の心に届くストーリーに変える。
私が「ブランドストーリーテラー」という言葉を使うのは、そういう意味です。ストーリーテリングとは、きれいな物語をつくることではありません。
人を理解する。企業やテクノロジーが持つ本当の価値を理解する。 その二つが交わる場所を見つけ、ブランドとして何を、どのように語るべきかを決める。
人を深く理解するからこそ、複雑なことをシンプルにできる。それが、私が考えるマーケティングの本質です。
データの先にいる「人」を見る
マーケティングは、成果に対してAccountableでなければなりません。私はリーダーとして、Quantitative dataに基づいて成果を測り、何が機能し、何が機能しなかったのかを検証するData-driven Marketingを重視しています。マーケティングがビジネスにどのようなインパクトを与えたのか。投資に対して何が返ってきたのか。どこに投資を続け、どこを変えるべきなのか。
感覚や経験だけで判断せず、データをもとに意思決定し、その結果に責任を持つ。マーケティングを説明できるものにしていく。それは、CMOとしてチームにも求めていることです。
しかし、数字だけですべてが分かるとも思っていません。数字は、人が「何をしたか」を教えてくれます。しかし、その背景にある「なぜ」までは分からないことがあります。
なぜ心が動いたのか。なぜ知っているのに選ばれないのか。なぜ必要だと分かっているのに行動しないのか。
だからこそ、Qualitative dataも重要です。お客様の声を聞く。行動を観察する。言葉になっていない違和感を捉える。社会や文化の変化を見る。Quantitative dataで「何が起きているのか」を捉え、Qualitative dataで、その背景にある「なぜ」を探る。その両方を行き来しながら仮説を立て、検証し、より良い意思決定につなげていく。私は、それが本当の意味でのData-driven Marketingだと考えています。人は、必要だから動くとは限りません。期待や憧れで動くこともあれば、不安や恐れで立ち止まることもある。安心したい。誰かとつながっていたい。認められたい。自分らしくありたい。一方で、変わりたくない。失敗したくない。人の行動の背景には、本人さえ言葉にできない感情があります。だから私は、マーケターは「人間行動学者」であり、「社会文化学者」でもあると思っています。人はなぜそう行動するのか。なぜ、同じものを見ても感じ方が違うのか。なぜ、社会や文化の変化によって、昨日まで受け入れられなかったものが突然当たり前になるのか。
社会を見る。文化を見る。人を見る。自分とは違う世代や価値観に触れる。そして、企業の中にいながら、企業の外から自社を見る。数字を見る。しかし、数字だけで人を決めつけない。 人を見る。しかし、感覚だけで判断しない。その両方を行き来しながら、人と社会を理解する。それが、ブランドとビジネスを前に進めるために欠かせない力だと思っています。
キャリアの原点――戦場のリポーター志望から、ビジネスの最前線へ
私のキャリアの原点は、意外にも「戦場のリポーター」への憧れでした。大学ではジャーナリズムを学びました。物事を一つの側面だけで見ず、現場に行き、人の声を聞き、その背景にある事実を理解する。振り返ってみると、当時身につけた視点は、今のマーケティングの仕事にも深くつながっています。その後、メディアの倫理観と自身の価値観との葛藤から、PR、そしてビジネスコミュニケーションの世界へと進みました。キャリアの初期には、現在フォーチュン500に名を連ねる企業の爆発的な成長期に立ち会いました。シリコンバレーのスタートアップで学んだのが、「Learning by doing(実践から学ぶ)」という考え方です。誰のアイデアかではなく、何が最も良い答えなのか。昨日までの合意に固執せず、市場やお客様から新しい事実を学んだなら、方向を変える。 自分のアイデアを守ることよりも、より良い答えにたどり着くことを優先する。その姿勢は、今も私の意思決定の軸になっています。特にGoogleの一員として、AdSenseの誕生やYouTubeの買収、Gmail、Drive、Android、Chromeが人々の生活や仕事のあり方を変えていく過程を内側から見られたことや、Amazon米国社員としてAmazonジャパンのローンチに携わったり米国本社のおもちゃストアや電化製品の立ち上げに携われたことは、大きな財産です 。そこで学んだのは、テクノロジーの価値は、技術そのものでは完結しないということでした。新しい機能が生まれたときではなく、それによって人の行動が変わり、それまで難しかったことが当たり前にできるようになったとき、テクノロジーは初めて本当の価値を持つ。この考え方は、現在の私にもつながっています。
生活者であることを、やめない
マーケターとしての感度を保つために、私は「生活者であることをやめない」ことも大切だと思っています。仕事の中だけにいると、いつの間にか業界の常識や社内の言葉で物事を見るようになります。しかし、お客様は私たちの会議室の中にはいません。日々の生活の中にいます。私自身も、CMOである前に、一人の生活者であり、母親であり、娘でもあります。レノボへの参画を決めた理由の一つに、働き方の柔軟性がありました。子供の行事に参加してから出勤する。家族と夕食を囲む。そうした時間は、仕事と切り離されたものではありません。むしろ、生活者として社会と接点を持ち続けることが、マーケターとしての視点につながっています。例えばAIについて考えるときも、私は「AIで何ができるか」から始めたいとは思いません。
人はどこで困っているのか。何を不安に感じているのか。今は諦めているけれど、テクノロジーがあれば変えられることは何か。私自身、以前より視力の衰えを感じることがあります。離れて暮らす母が、きちんと薬を飲めているだろうかと気にかけることもあります。そうした日常の中にある小さな不便や不安に、テクノロジーはどう寄り添えるのか。AI製品「QIRA」のような新しいテクノロジーも、機能の新しさだけではなく、高齢化する日本で人の生活をどう変えられるのかという視点で考えたい。「目に見えないテクノロジーが、当たり前ではなかったことを、当たり前にしていく」。
その変化に、生活者の一人として関われることに、大きなやりがいを感じています。
レノボで実現したいこと――見えないテクノロジーを、人の価値へ
現在、レノボはハードウェア企業から、ソリューションやサービスを含むテクノロジーカンパニーへと大きく進化しています。その変化の中で、「この技術は何ができるのか」だけでなく、「人の生活や仕事をどう変えるのか」を考えられることに、大きな魅力を感じています。入社後、レノボという会社の可能性を強く実感したのが、FIFA 2026のプロジェクトやTech Worldを通じて、お客様の反応を間近で見たときでした。世界中の人々が同じ瞬間に熱狂する。その体験の裏側では、膨大なテクノロジーが動いています。しかし、最高のテクノロジーは、必ずしも前面に出るものではありません。むしろ、人がその存在を意識することなく、今までできなかったことを自然にできるようにする。レノボは、そうした「見えないところで世界を動かす力」を持っています。FIFA 2026ワールドカップという世界最高峰の舞台を通じて伝えたいのも、単にレノボの技術力ではありません。テクノロジーがあるからこそ生まれる感動がある。人と人がつながる瞬間がある。世界中の人が同じ体験を共有できる。その人間の体験まで含めて語ることが、ブランドの役割だと考えています。
変化は、正論だけでは起こせない
レノボで働く中で改めて学んだのは、正しい答えを持っているだけでは、変化は起こせないということです。グローバル企業としてのスピード感と、日本企業として積み重ねてきた価値観。レノボには、その両方があります。新しく組織に入った人間が、「これが正解です」と答えを示すことは簡単です。しかし、どれほど正しいアイデアでも、実行されなければ意味がありません。
なぜ人は変化に不安を感じるのか。何を失うことを恐れているのか。どんな背景や前提があるのか。それを理解せずに正論だけを押し付けても、人は動きません。
ここでも必要なのは、人を理解することです。変化のスピードを落とすということではありません。相手の背景を理解し、実行できる形に変換する。アイデアを「正しいこと」で終わらせず、組織の中で実際に動くソリューションにする。誰もがアイデアを出すことはできます。しかし、人を巻き込み、決断し、実行し、最後まで着地させるには、また別の力が必要です。
私は、アイデアを語る人ではなく、アイデアを育てるサポートをし、それを現実にする「実行者」であり続けたいと思っています。
AI時代のリーダーシップ――人間理解を競争力に
リーダーとして、私が大切にしていることがあります。それはまず、人間として信頼される人であることです。どれだけ経験があっても、どれだけ正しいことを言っていても、人間として信頼されなければ、人を率いることはできないと思っています。完璧である必要はありません。しかし、言っていることと、やっていることが一致していること。都合の悪いときにも誠実であること。相手の立場や人間性を尊重すること。人は、肩書きについてくるのではありません。最後は、その人を信頼できるかどうかだと思っています。時々、チームに「私たちは心臓外科医ではない」と言うことがあります。私たちの仕事は重要です。しかし、目の前の仕事に追われ、すべてを深刻に捉えすぎて、人間としての感覚を失ってはいけない。自分も人間であり、チームも人間であり、お客様も人間です。人間性を忘れないことは、仕事から離れることではありません。人を理解することが仕事であるマーケターにとって、それはプロフェッショナリズムの一部だと思っています。一方で、リーダーである以上、決断することから逃げてはいけません。すべての情報が揃うまで待つことはできない。全員が賛成する答えがあるとも限らない。それでも、進む方向を決める。必要であれば「ノー」と言う。状況が変われば、過去の判断に固執せず方向を変える。そして、自分が下した決断には責任を持つ。人の話を聞くことと、決断を先延ばしにすることは違います。相手を尊重することと、すべての人を満足させることも違います。人間として信頼されること。そして、リーダーとして必要なときに決断すること。その両方があって初めて、人は安心してついてこられるのだと思っています。
テクノロジーが進化するほど、その中心に「人」を
これからのマーケティングは、データとAIを抜きには語れません。AIは膨大なデータを分析し、人が何を検索し、何をクリックし、何を購入したのかを捉え、次の行動を予測することもできるようになっています。しかし、人間を動かすのは、ニーズだけではありません。喜び、期待、憧れ、不安、恐れ、誇り、安心感。誰かとつながっていたい。認められたい。自分らしくありたい。 あるいは、変わりたくない。失敗したくない。人が口にしない違和感。数字にはまだ表れていない変化。 知っているのに、なぜ選ばれないのか。必要だと分かっているのに、なぜ行動しないのか。AIが進化すればするほど、こうした人間の複雑さに好奇心を持ち続けることが、マーケターにはますます重要になると考えています。データを見る。しかし、数字だけで人を決めつけない。テクノロジーを理解する。しかし、機能から発想するのではなく、その先にいる人の感情から考える。社会を見る。文化を見る。そして、企業の内側にいながら、常に外から自分たちを見る。人を理解し、顧客の視点を企業へ持ち込む。 企業やテクノロジーが持つ価値を、人にとっての意味として解釈する。その理解をブランドの声に変え、明確なObjectiveのもと、心に響くストーリーとして再び人へ届ける。中期的な目標は、レノボを「誰もが愛するブランド」にすることです。しかし、愛されるブランドは、企業が「愛してください」と言ってつくれるものではありません。お客様の視点から自分たちを見ること。まだ言葉になっていない声を聞くこと。人の感情と、その背景にある社会や文化の変化を理解すること。そして、テクノロジーをスペックや機能としてではなく、人の生活や仕事を変える価値として届けること。レノボとNECPC、それぞれが持つ強みを活かしながら、あらゆるライフステージで、人にとって意味のある体験をつくっていきたいと思っています。テクノロジーが進化すればするほど、その中心にいる「人」を見失わないこと。人を観察し、理解し、その声を代弁する。社会と文化の変化に好奇心を持ち続ける。企業の価値を、人にとって意味のあるブランドの声へと変える。 そして、複雑なテクノロジーを、心に響くストーリーとして人へ届ける。人を深く理解するからこそ、複雑なことをシンプルにできる。
それが、私がマーケティングを通じて実現したいことです。
