富士山で学んだ働く意味を軸に。業界に縛られず向き合った就職活動
学生時代に最も注力したのは、富士山頂の山小屋での住み込みアルバイトです。今振り返っても、この経験がその後の人生や仕事に与えた影響は非常に大きかったと感じています。
大学入学後、私はアメフト部に所属し、全力で取り組んでいました。ただ、怪我をきっかけに思うように続けることができなくなり、次に何に本気で向き合うかを考える時間が増えました。そんな中、大学の掲示板の端っこに貼られていた富士山頂上でのアルバイト募集を見つけました。「富士山頂、電話で連絡、頂上まで登ってきたら採用」という簡素な募集文になぜか惹かれ、その場で電話をかけ、気が付けば翌週には富士山を登っていました。大学2年生の時です。
富士山頂上での生活は、まったく違う世界が広がってました。全国各地から集まった従業員、特殊な自然環境での共同生活、1日に何百人もの登山客への対応、天候次第で一瞬にして状況が変わる現場。決して楽な環境ではありませんでしたが、その分、毎日が非常に濃密でした。圧倒的なご来光を毎日のように眺め、登山客をガイドしながら富士山を上り下りする日々。大学の中だけでは出会えなかった価値観や生き方を持つ人たちと働く中で、自分の視野が一気に広がっていくのを感じました。最初は短期のつもりでしたが、気が付けば毎年夏になると富士山に戻るようになり、結果的に4年間続けました。合計すると300日近くを富士山で過ごしたことになります。ここで働いたお金で日本一周や、大学休学してオーストラリア留学するなど、世界も広がっていきました。
就職活動では、富士山の経験から、業界や職種ありきではなく、その場所に深く入り込み、正解のない中で人や案件を動かしていく仕事が自分に合っている、成長できると考え、そういうフィールドを求めていました。机上で完結する仕事や、決められた正解をなぞる仕事には、あまり惹かれませんでした。トラブルや板挟みも含めて、最後まで向き合う必要がある仕事かどうか。成果だけでなく、プロセスそのものに責任を持てる仕事かどうかを重視していました。また、人と人の間に立つ役割があるかどうかも大切にしていました。技術やモノを作るだけでなく、立場や利害の違う人同士をつなぎ、合意形成をしていく役割がある仕事に魅力を感じていました。
いろいろな業界や仕事を見る中で、しんどそうだけれど、一番おもしろそうだと感じたのが商社でした。正解がない、関係者が多い、責任も重い。それでも誰かが引き受けなければ前に進まない仕事が多い。富士山でのアルバイト経験を通じて、そうした環境にこそ自分の居場所があると感じていたのだと思います。
出向からスタート。現場で学び、海外で試され、 商売の土台を作った若手時代
私は2012年に入社し、社会人としての最初の2年間を、豊通マシナリーへの出向という形でスタートしました。 会社から言われたのは、まずは現場を見てこい、鍛えられてこい、という一言でした。 当時の私は、現場に行きたいという思いが強く、出向そのものに大きな違和感はありませんでした。 ただ、実際に飛び込んでみると、その世界は想像していたよりも、はるかに厳しいものでした。 自動車ティア1メーカーをお客さまとし、機械設備の売買と工場営業を担当。 1年目から数千万円単位の設備案件を経験させてもらう一方で、ネジ1本、部品1点を売る仕事も同時に任されました。 見積作成、納品対応、工事立会、トラブル対応。 毎日が現場で、毎日が修羅場でした。 夜遅くまで工場に残り、現場のベテラン作業者や職人の方々に怒鳴られる。 失敗する。詰められる。 それでも翌日また現場に行く。 正直に言えば、つらかったです。 逃げ出したいと思ったことも、何度もあります。 それでも、辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。 同じ現場で奮闘する先輩や同僚に恵まれ、厳しい中にも仕事のおもしろさと、人と一緒に働く楽しさがあったからです。 夜遅くまで現場にいて、終わってから先輩と飲みに行き、また翌日現場に戻る。 今思い返せば、めちゃくちゃつらかったですが、楽しかった日々でした。 この2年間で学んだのは、商社の仕事は机の上では完結しないということです。 現場に足を運び続けることでしか得られない信頼が、確実に存在するということでした。
その後、私は北米へ渡り、1年間、現地での実務研修生として勤務しました。 ここでの役割は、大型プロジェクトの現場責任者、いわゆるサイトマネージャーでした。 日本から輸送されてきた何十トンもの大型設備を、現地のワーカーを率いて据え付ける。 言語も文化も仕事の進め方も違う環境の中で、毎日が刺激的でした。 日本人だから通じる理屈はない。 立場ではなく、判断と行動で信頼を勝ち取らなければ現場は動かない。 この1年間は、現場で世界に揉まれた時間でした。 同時に、自分の視野が一気に広がった期間でもあります。
帰国後は、豊田支店に所属し、国内外の複数プロジェクトを同時に担当することになりました。3年間の経験を糧にして、 アメリカ、ブラジル、ヨーロッパ、中国、東南アジア。時差を跨ぎながら、複数PJを同時進行で回す日々。 仕事がおもしろくて仕方がない。朝から晩まで働き続ける生活でした。 今でもびっくりするぐらい激務でしたが、上司、先輩、後輩に恵まれ、メンバー仲が良く、業務外でもマラソン大会や小旅行、連日の飲み会など、OnもOffも全力で過ごしていました。
この時期、仕事と同時に、家庭での役割とも向き合う必要がありました。 息子2人が生まれ4人家族になりましたが、妻も仕事をしていたため、家事や育児は一緒に担う前提でしたが、正直に言うと、自分の余裕が足りず、結果として妻に多くの負担をかけてしまいました。 仕事のことを考える時間が多く、目の前のことで精一杯になり、家庭の中での自分の立ち位置や役割を十分に果たせていなかったと感じる場面もありました。それでも大きな不満を表に出さず支えてくれた妻の存在は、当時も今も非常に大きいものです。 職場のみんなにもいっぱい協力してもらいました。あとは任せろと言ってくれる同僚に甘えながら、保育園の迎えで連日連夜、駅に向かってダッシュする日々。この経験を通じて、仕事は一人で完結するものではないこと、そして自分が仕事に集中できている背景には、周囲の支えがあるという当たり前の事実を、あらためて実感しました。 今振り返ると、この時期は仕事を突き詰めながら、人としての向き合い方を学ばせてもらった時間だったと思っています。
コロナ禍での中国駐在。初めてのマネジメントに試行錯誤を重ねる日々。
中国広州での駐在は、現地法人の機械エンジニア事業体に出向しました。現地メンバーを含むチームを率いる立場になりました。 それまで日本でもプロジェクトの取りまとめや後輩指導といった経験はありましたが、中国でのマネジメントは、これまでとはまったく次元の違うものでした。 まず直面したのは、中国ビジネスそのものの難しさです。 言語、文化、価値観、仕事の進め方。 日本からさまざまな中国のプロジェクトに関わってましたが、実際に中国企業に所属して働いてみると、日本と異なり、スピード感は非常に速く、昨日までの前提が今日には変わる。 一方で、人間関係や信頼の重みは非常に大きいですが、義理人情より価格重視でもあり。今までの正しさだけでは物事が進まない場面も多くありました。 その中で、成果責任を負う立場として強く感じたのは、 自分が正しい判断をするだけでは、チームは前に進まない という現実でした。 チームメンバーの背景は本当にバラバラでした。 経験も、能力も、性格も、不安の持ち方も違う。 同じ指示を出しても、前向きに動く人もいれば、不安になって止まってしまう人もいる。 任せすぎると潰れてしまう人がいて、任せなければ力を発揮できない人もいる。 正解のマネジメントは一つもない、というのが正直な実感した。 自分が前に出た方が早い 自分で判断した方が確実だ という思いが強く、判断、調整、説明、トラブル対応を、ついすべて自分で段取りして、抱え込んでしまいました。 結果として、 自分は常に手一杯。チームは一時的に楽だが、考えなくなり、育たない という状態を作ってしまいました。 この時に、人をマネジメントする方が、自分で動くより何倍も難しいのだと痛感しました。 そこから、意識的にスタンスを変えるようになりました。 決めるところは自分が決める。 しかし、考えるプロセスは任せる。 失敗してもすぐに答えを出さず、なぜそう判断したのかを一緒に振り返る。 まだまだマネジメントのマも習得できてませんが、いろいろ考えるきっかけになり、四苦八苦できたことはいい経験となっています。
中国駐在中は、上司のアドバイスもあり、 現地AS格と言われる豊田通商(広州)有限公司にも所属し、他の部門のメンバーとも関わりながら仕事をしました。今までは機械一本で仕事をしてきてましたが、初めて多くの他部門と一緒に仕事をすることで、うちの会社には、こんなにも多くの部門があり、ここまで異なる仕事を各自がしていることを初めて腹落ちして理解しました。自分の機械の仕事が、金属や物流、エネルギー、はたまた食料や自動車にもどうつながっているのか、総合商社で働いしていることを意識できて、視座が上がった瞬間でした。
家族帯同での駐在でした。とくにコロナ禍だったので、行動や生活に多くの制約がある中、家族で一緒に過ごし、支え合いながら日々を乗り切っていきました。 仕事では大いに悩みました。 思うように進まないことも多く、自分の未熟さを突きつけられる場面も少なくありませんでした。 それでも、家族がそばにいたことで、一人ではないと感じられたことは大きな支えでした。 中国駐在は、決して楽しいことばかりではありませんでした。 ただ、人と向き合うとはどういうことか。 チームで成果を出すとはどういうことか。 そして、仕事と人生をどう両立していくのか。 それらを、逃げ場のない環境で学ばせてもらった時間だったと、今は感じています。
新規開拓の最前線で、信頼されるリーダーをめざして
現在私は、EVコンポーネント機械部に所属し、大阪支店にてマルチメイクおよび新規開拓チームのリーダーを務めています。 前期までは既存顧客の大型プロジェクトでチームリーダーを務めていましたが、現在はそちらはサポートの立場になり、新規領域の開拓により注力する役割になりました。 新規開拓では、これまで取引のなかったお客さまや新しい分野に対し、継続的に足を運び、投資動向や課題を丁寧にヒアリングしながら、社内外を巻き込んだ打ち合わせを重ねています。 短期間で成果が見える仕事ではありませんが、中長期でビジネスにつながる関係を築くことを第一に考え、まずは信頼の入口に立つことを目標に取り組んでいます。 この仕事に向き合う中で強く感じているのは、これまでの経験がすべて今につながっているという実感です。 現場で鍛えられた感覚、海外で揉まれた経験、国内外のプロジェクトを同時に回してきた判断力や調整力。 それらが、新しいお客様と向き合う際の確かな土台になっています。 当社が長年かけて培ってきた、競合他社やお客さま自身も持っていない機能や知見を、どのように伝え、どのように使えばお客さまの困りごとに応えられるのか。 設備単体の話にとどまらず、工程全体や将来像まで含めて考え、提案することを常に意識しています。
マネジメントについても、中国駐在での経験を踏まえ、目先の成果だけにとらわれるのではなく、視座を一段上げて物事を捉えることを大切にしています。 自分が前に出て答えを出すだけでなく、メンバーが考え、成長できる余地をどう作るか。 チームとして成果を出しながら、個々の成長にもつながる関わり方を、引き続き模索していきたいと考えています。
その上で、最近はDXや生成AIを積極的に業務に取り入れています。 業界構造や競合動向の整理、情報の構造化、打ち合わせ前の論点整理などをAIに補助させることで、人が考えるべき部分や対話の質に、より多くの時間を使えるようになってきました。 新規開拓のように不確実性の高い仕事だからこそ、仮説検証のスピードを上げる手段として、こうしたツールを活用しています。
これまで、現場、海外、プロジェクト、マネジメントとさまざまな経験をしてきましたが、今はそれらを総動員して、新しい商売をつくるフェーズにいます。 簡単な仕事ではありませんが、だからこそおもしろく、これまでの経験を最も生かせる仕事だと感じています。 これからは、自分自身も成長し続けながら、これまで支えてもらった上司や同僚、メンバー、そして仕事を通じて関わってきた多くの人たちに、少しずつでも恩返しができるような働き方をしていきたいと考えています。
最後に。これから社会人になる皆さんへ。これからの時代、環境の変化はますます激しくなっていくと思います。 その中で本当に必要なのは、特別な肩書きや過去の実績よりも、考え続ける力と、人と誠実に向き合い続ける力だと思ってます。 豊田通商には、現場に入り込み、悩み、試行錯誤しながら、その力を実践的に鍛え続けられる環境があります。 もし皆さんが、楽な道ではなく、自分自身を少しずつ鍛えながら前に進む道を選びたいと思っているなら、ぜひ一度、豊田通商というフィールドを覗いてみてください。 正解は最初から用意されているものではなく、入社してから、仕事や人と向き合い続ける中で、自分自身でつくっていくもの、Updateしていくものだと私は思っています。 皆さんと、どこかの現場で、同じ目線で悩み、考え、一緒に仕事ができる日を楽しみにしています。

