四葉のクローバーが導いた、意外なスタートライン
1985年、バブル景気が始まる少し前。田中は、将来の進路に迷いながら就職活動をしていました。世の中では銀行やマスコミが人気を集めていましたが、田中には明確な志望がなかったといいます。
「自分が何をしたいのか、どんな仕事が向いているのか、なかなかイメージすることができませんでした。ただ、話すのが得意なわけでもなく、人と積極的に関わるタイプでもなかったので、『営業職だけは避けよう』と心に決めていました。
当時はまだインターネットもなく、企業について調べるといっても、家に届く会社案内を眺めるくらい。どれも似たような内容で、いまひとつピンとこない中、ある一冊のパンフレットが目に留まりました。
“医学に貢献、社会に奉仕”という大きな文字と、四葉のクローバーのイラスト。それが、日本ストライカーの前身で、医療機器の輸入・販売を行っていた松本医科器械の案内でした」
そのパンフレットをきっかけに、田中は大学のOBに話を聞きに行くことに。そこで知ったのは、医療現場に深く関わる商社としての存在感と、製品一つひとつに込められた使命感でした。
「海外の医療機器を全国の医療機関に販売している商社であること。『松本医科器械がないと病院が開業できない』と言われるほど、医療の現場から頼りにされていること。話を聞けば聞くほど、これまで知らなかった世界が広がっていくようで、とてもワクワクしたのを覚えています。
『営業職だけは避けよう』と思っていたはずなのに、製品一つひとつの話が面白く、気づけば“この会社で働いてみたい”と思うようになっていました」
こうして1986年、田中は松本医科器械に入社。営業としてのキャリアが始まりました。
東京支店、本郷三丁目から始まった、信頼を積み重ねる営業人生
田中が配属されたのは、東京・東京支店。本郷三丁目周辺は大学病院をはじめとする大規模な医療機関が集中するエリアです。
「朝は社内で事務作業を行い、午後からは病院を訪問するという日々が始まりました。東京支店には営業だけでなく、事務や倉庫を担当する社員も含めて約100名が在籍していて、とても活気のある職場でした。
昼休みに同僚と食事をしたり、仕事終わりに飲みに行ったりする中で、自然と“チームの一員”という意識が芽生えていったように思います」
営業としてのスタートを切った田中。医療の専門知識はありませんでしたが、現場に立つことへの抵抗はなかったといいます。
「私はもともと医療に強い関心があったわけではありません。でも、“手術”と聞いて緊張する人も多い中で、私は実際の手術現場でも戸惑いを感じることはありませんでした。目の前で行われる処置を落ち着いて見守り、自分に求められることに集中していたように思います。
若手のころは経験が浅く、医師の先生方の専門的な質問に応えるのにただ必死でした。大変な場面も多かったはずですが、不思議と、いま記憶に残っているのは『患者さんの手術を成功させたい』という強い使命感と、知識を深め続けることへの前向きな気持ちだけです。
当時は物流体制も今ほど整っておらず、製品の到着が遅れることも珍しくありませんでしたので、チーム全体で声を掛け合い協力しながら、高い責任感を持って取り組んでいたように思います。入社前のイメージと異なり営業職は合っていたようで、気づけばこの仕事にどんどん引き込まれていました。今振り返ると、当初想像していた以上に、順調なスタートを切れていたのだと思います」
先生の「足音でわかったよ」が、仕事の意味を教えてくれた
その後、松本医科器械は米国・ストライカーコーポレーションとの経営統合を経て、1999年に日本ストライカーとして新たに出発。田中は引き続き人工関節関連製品の営業担当として医療の最前線に関わり続けました。
医療機器メーカーの営業は、病院に常駐するわけではなく、新たな手術用機器をご紹介したり、医療機器を安全にご使用いただくため手術に立ち会い情報提供を行う存在です。
その限られた関わりの中で、「ただの業者」ではなく、医師や看護師と同じ方向を見て連携できる、信頼されるチームの一員でありたい——田中は、そんな想いを胸に日々の業務に向き合ってきました。
「営業という立場でも、医療の向上に貢献する仲間として信頼されたいという気持ちは常にありました。そのために大切にしていたのが、日々の準備。最新の文献を読み、製品の特長や課題を深く理解し、どんな質問にも自分の言葉で答えられるように努めていました。知識を蓄えることも、現場での振る舞いも、すべては信頼につながると信じて、一つひとつ丁寧に積み重ねてきました」
入社から10年ほど経ったころ、その積み重ねが、ある日、思いがけないかたちで返ってきました。都内の病院での出来事です。
「外来を歩いていたら、突然カーテンがシャッと開いて、ある先生が『お、来たね』と声をかけてくれたんです。驚いて『どうして私だとわかったんですか?』と聞いたら、『田中さんの足音だったから』と笑顔で返されました。その何気ない一言がとても嬉しくて、『自分の存在をちゃんと見てくれている』と胸が熱くなりました。
また、別の日には、手術に使用する医療機器の仕様や適応について情報提供するために先生と一緒に患者さんのレントゲン写真を確認していたところ、他の先生方も次々に写真を持ってきて、『田中さん、これも見てもらえますか』と声をかけてくれたことがありました。『さすがに手が足りませんよ』と笑いながら応じましたが、内心ではその信頼が本当にありがたく、嬉しさがこみ上げました。
医療機器メーカーの営業としては、医療機器が安全かつ適切に使用され、患者さんの治療に役立てられることが何よりのやりがいです」
こうした経験の積み重ねが、営業という仕事に対する誇りとやりがいを、より確かなものにしていきました。
「営業の仕事は決して楽ではありません。ときには厳しい場面やプレッシャーに直面することもあります。それでも、先生の方から自然に声をかけていただけると、日々の地道な努力が少しずつ信頼というかたちになって表れていることを感じます。
製品の品質はもちろんですが、医療現場で求められるのは、誠実に向き合い、支え合える“人”の力なのだなと。
松本医科器械から日本ストライカーへと組織や体制が進化しても、現場で求められる姿勢や信頼の築き方は変わりません。営業として大切にしてきた“本質”は、今も変わらずここにあります」
現場で築いた信頼、支えてくれた家族、誇りを持てる製品があったから
40年という営業人生を振り返るとき、田中がまず思い浮かべるのは、現場で築いた信頼ともう一つ、家族の存在です。
「ここまで続けてこられた理由を問われれば、現場で築いた信頼と、家族の支えの両方が欠かせません。特に多忙を極めたのは、30代後半、エリアマネジャーの任命を受け東京と山梨の両エリアを担当していた頃です。朝7時半に都内の病院で手術カンファレンス前の先生方に会い、その足で山梨の大学病院へ手術の立ち会いに向かう日々が約1年続きました。
平日は同じ家に住みながら家族と顔を合わせる時間がほとんどないこともあり、まだ小さかった子どもたちには寂しい思いをさせてしまいました。
当時、下の子はまだ1歳。相当大変だったはずですが、支えてくれた妻には感謝しかありません。子どもたちも元気に育ち、今年その下の子も無事に就職しました。家庭での安心感があったからこそ、仕事でも人との信頼関係を大切にできたと感じています」
そして田中を動かし続けた原動力は、もう一つあります。それが、ストライカー製品への誇りでした。
「ストライカーは回転ベッドの開発から始まった会社です。創業者のホーマー・ストライカー博士は、1940年代に整形外科医として働きながら『患者さんの回復を助けたい』と自ら必要な器具を作り出しました。
“世の中にまだないものを、自らの手で作る”。その情熱と探求心は、ストライカーのイノベーションのDNAとして、今なお確かに受け継がれていると感じます。製品の“進化の仕方”に注目すると、たとえば整形外科インプラントなどでは過去の技術や設計を一新するのではなく、積み重ねた知見と経験を土台に、新たな技術や改善をもたらすことが多くあります。そうやって生まれる製品には、長年の経験が自然と反映され、現場で使用される際にも信頼を感じていただきやすくなります。
会社の規模や体制が変化しても、現場に向き合う姿勢や、お客様や患者さんを第一に考える姿勢は、ストライカーの文化として今も変わりません。医療現場で築かれる信頼は、営業としての基盤であり、私自身が40年間積み重ねてきたものでもあります。 その信頼をベースに、医療の向上に貢献したい——その気持ちこそが、私を営業として走らせ続けてきた原動力です」
※ 記載内容は2025年9月時点のものです

