おてんば娘だった幼少期──デザイナーとしての才覚
山梨県甲府市。3兄妹の末っ子として生まれた中澤は、仲良しの兄2人と一緒になって草むらを走り回る“おてんば娘”でした。その反面、近所に住む叔母の影響で洋服に興味を持ち、自ら絵を描いて叔母にワンピースやスカートを縫ってもらうなど、すでにデザイナーとしての才能が芽生えていました。
「地元の高校を卒業し、東京の短大へ進学することになって親元を離れました。短大までは普通科で、とくに服飾に関連することは学びませんでしたが、短大を卒業した後に何をしようか考えていたところ、父の知り合いで服飾関連の仕事をされている方がいて、刺激を受けたんです」
そうして、幼いころからの夢である「デザイナーになること」を実現するため服飾の専門学校へ入学し洋服作りについて学び始めることになります。
「ちなみに、小学校のころの将来の夢は『デザイナーになる!』と『ラーメン屋になる!』でした(笑)」
専門学校ではミニファッションショーなどが頻繁にあり、ショーに向けた物作りに追われる毎日。それでも、好きなことができる楽しさと幼少期からデザインを描いていたことがアドバンテージとなり先生に褒められることが多い優秀な生徒だったと言います。
「生地屋さんでアルバイトをした際に、『こんな生地で洋服を作れたら!?』と考えて目新しさがない時代にあえてチャレンジするためには立体裁断技術習得やデザイン画の勉強が必要だと思って学んだりしました。
当時を振り返ると忙しい毎日を過ごしていましたが、さまざまな知識を得ることで洋服作りに対する情熱がどんどん膨れ上がっていくのがわかりました」
専門学校を卒業した中澤は、その技術力を認められ当時大人気であった大手アパレルメーカーに就職することになります。
自分の好きを仕事にできる喜び──日々充実した仕事と父の死
念願のアパレルメーカーに就職した中澤。まずは、3カ月間上野にあるアトリエで研修を行い基礎を身につけていきました。研修が終わると、企画担当として配属されます。
「高度成長が終わって安定成長期に達していた日本はアパレルブーム。TPOに合わせて国民がファッションに興味を持っていた時代で、当時の社長も『良い物を見て良い経験をするように』といつも言っていました。
良い物を知らなければ、良い物を知っているお客さまにお勧めできない。今でも、スタッフにはラグジュアリーブランドの店舗で良い物を見てくるように指導しています」
入社して3年目。毎日が楽しく、仕事もどんどん覚えて順調にキャリアアップしていた時に、突然父が亡くなります。
「大好きな仕事を諦めたくなかったのですが、寂しそうにしている母を放ってはおけず退職して山梨に戻ることにしました」
27歳の時に結婚し、出産を経て主婦として家事に専念することに。しかし、働きたくて仕方がなかった中澤は、子どもが小学3年生になった時に再び働き始めます。
「今まで学んだ知識を活かすために地元のニット企画会社に入社しました。家族経営的な少人数の会社で、社長はいつも口酸っぱく細かいことを注意していましたが、失敗しない慎重さについて学びました」
そして、テーブルセッティングが人気だと気づき月1~2回の研修を受け独立。自営業でインテリアコーディネイトの仕事を始め、順調に顧客を増やしていきました。
「そんな時、東京の大学に通っていた息子が就職のタイミングで甲府に戻ると言ってきました。これを機に、息子に変わって『私が東京へ戻りたい!』と提案し、家族全員の承諾を得て再び東京へ戻ることになったんです」
自分の技術と知識を活かせる──マジックミシンとの出会い
東京へ戻った中澤でしたが、これといった就職先があったわけではないと言います。
「何をしようか考えていたところ、マジックミシンの加盟店オーナーをやっている友人に加盟店オーナーを勧められましたが、最初は『なんで私がお直しをやるのよ!』と思いました。最高の物作りのために今まで努力を重ねて技術を習得してきた私にとって、洋服のお直しはとても魅力的には思えなかったんです」
しかし、ただパンツの裾上げやウエストサイズの調整をするだけだと思っていた洋服のお直しが、じつは奥が深いことを知ります。
「お客さまのさまざまな思い出とともに着られてきた思い入れのある服があることを知ったんです。『どうしてももう一度着たいから、なんとか直せないか?』『お祖母さんの形見の着物をドレスにして着たい』というお客さまのご要望や、お体が不自由な方が洋服を着やすくするためにさまざまな加工を施すユニバーサルファッション。
洋服のお直しの奥深さに触れることで、こんなに洋服で悩んでいるお客さまがいるのなら、いままで培ってきた自分の技術と知識を活かして喜んでいただけるに違いないと思ったんです」
そう確信した中澤は、加盟店オーナーになることを決意します。初めての店舗は横浜市にある店舗。当時は競合店も少なく、集客力も抜群だったと言います。その後、渋谷に移ってさらに技術を高めていきます。
「ファスナー交換のスタッフ教育からあまり携わることの少なかった紳士服の肩幅調整まで、基礎があったのでやり方さえわかってしまえばすぐに習得できました。とにかく新しいことへのチャレンジを常に行い、どん欲に技術取得をしていきました。
服飾学校から大手アパレル企業での業務経験、山梨へ戻って勤務したニット企画会社やインテリアコーディネイトの仕事まで、すべてが今の仕事に大いに役立っています。人生に無駄なことはないんですよね!
だから、今を大切に多くの経験をしていきたいんです」
洋服お直し技術者の社会的地位向上が私の目標
現在、オーダー・リメイク、ユニバーサルファッションを得意とする「アトリエ・クチュリエール東急プラザ渋谷店」と2023年8月にオープンした「マジックミシンサンローゼ赤坂店」、「マジックミシン白洋舎溜池店」の3店を運営し、常にチャレンジしている中澤。次なる目標についてこう語ります。
「まずは、会社設立をめざしています。その上でやっていきたいことが若いスタッフの育成です。
現在、洋服のお直し業界は高い技術や知識を持った技術者が年齢とともに引退しており深刻な人手不足が問題となっています。一方で、地球環境保護にもつながる『廃棄しないで直して着よう』という顧客のマインド変化は、SDG’sの流れからも顕著で今後ますます強くなっていくでしょう。そんな将来に向けて業界への恩返しとともに自分の生きた証を残したく、スタッフ育成に注力しています」
そんな中澤の気持ちを察してか、若手のスタッフは「スポンジが水を吸うように」どんどん技術を高めていっていると言います。
「お客さまのライフスタイルの変化や、ファッショントレンド変化に敏感であること。そして、私がこれまで教わってきたように常に良い物を見て勉強することを言い聞かせ、自ら学び成長する姿勢を大切にするように伝えています。私自身も、その姿勢は変わらずに持ち続けたい。
よく、店舗ではお直し前の洋服とお直し後の洋服のビフォー・アフターを販促として掲出することがありますが、商品のビフォー・アフターよりお客さまの笑顔のビフォー・アフターが忘れられません。
ある時、お体が不自由な方がお嬢様の結婚式にモーニングを着たいとユニバーサルファッションの相談に来られました。最初は表情も硬く、笑顔もなかったお客さまが、お直しによってモーニングを着られた時の笑顔が忘れられず、洋服のお直しの大きな可能性を再認識しました。
そんなお客さまの最高の笑顔を引き出すためにも、どんなに難しいお直しにもチャレンジできる技術と知識を高める。そして、それを若いスタッフへと受け継ぐこと。
高い技術力こそがロボットではなく人だからこそできるものであり、これからの洋服のお直し技術者の社会的地位向上につながることだと信じて努力していきます!」
※ 記載内容は2023年11月時点のものです
