家族や友人のサポートへの感謝。その想いを胸に障がいを乗り越えてゆく
生まれた時から聴覚に障がいのある野呂。幼少期から思春期までの彼は、家族や友人とどのように関り、過ごしていたのだろう。
「母は、なんとしても私を聞こえるようにしたい一心で、全国の病院に連れて行き、検査を受けさせて回りました。しかし、それが難しいという現実を受け入れてからは、ろう学校(幼稚部)に通わせるだけでなく、聞こえる子どもたちがいる普通の幼稚園にも入れてくれました。
さらに、聞こえる子たちと少しでもコミュニケーションが取れるようにと、発音訓練センターにも通わせてくれたのです」
発音の訓練とは、音を発していることを「聞く」以外の感覚で認知し、その動作を体得するものだ。たとえば、ゴム風船を膨らませ、風船越しに声を出す訓練方法がある。声を出した時に、風船が振動すれば音が出ていると認知する。
「『サ』などの音は皿の上に置かれた綿が息で飛ぶことで、また、『か』行はスポイトで喉元に水を落とし、その水滴が食道や気管支に行かないように喉を動かすことで、音が出ていると認知します。
こうしたことができるようになるまで繰り返す訓練は、幼い私にはつらいものでしたが、できるようになったことで、幼稚園ではたくさんの聞こえる友達をつくることができました。
小・中学校ではろう学校には通わず、先生の近くの席に座り、先生の口元を見て話の内容を理解しながら学習しました。学習内容が高度になってきた頃には、たくさんの友達がいつも助けてくれたことも素晴らしい思い出です」
身体を動かすことが大好きだった野呂は、小学校ではソフトボール、中学校では野球に熱中した。
「厳しい母ではありましたが、『自分の好きなことをしなさい』とも言ってくれました。また、両親は、聞こえない私が聞くこと以外の感覚から得られる情報の質、量そして種類を豊かにすることで感性が育つようにと、たびたび旅行に連れて行ってくれました。
私には7つ下の弟がいます。年の差がこれだけ開いたのは、耳が聞こえない私に両親が時間をかけてくれたからだと思っています。両親が注いでくれた愛情が、身体だけではなく人格形成の礎になったことは間違いありません」
私の人生の2つのコア。サッカーと建築
実家が木材加工業であったこともあり、「木で何かを作る仕事に就きたい」と考え始めた野呂は、自立を見据え、日本で唯一となるろうの国立大学をめざしながら、サッカーにも没頭していった。
「大学進学に向けて、高校は名古屋のろう学校に進学することを決めました。小・中学校は聞こえる友達と過ごしたので、手話は高校に入学してから覚えました。
また、高校には野球部がなかったのでサッカー部に入りましたが、2番目に好きだったのがサッカーだから、という単純な決断ではありません。いったんやると決めたらとことん突き進むことを大切にしてきたので、とにかく上手になりたくて人一倍練習に打ち込みました」
サッカー部の監督がユニバーシアード代表経験者であったため、的確な指導を受けられたことと、持ち前の身体能力によりメキメキと上達した。
「ろうの国立大学に入学後、全国ろうあ者体育大会に初めて出場した時、デフサッカー日本代表監督から『代表合宿に参加しないか』と声をかけてもらい、また、社会人リーグにも参加させてもらいました。
この頃は、デフリンピックに出場するという大きな目標に向かって邁進していたので、練習に打ち込み、できないことを次々とできるようにしていった時期でした。
その結果、デフリンピックのサッカー代表選手に選ばれ、世界中の人たちとサッカーを通してコミュニケーションを取ることで、自分自身の視野が一気に広がった時期でもありました」
一方、学業では建築を専攻し、サッカーとは別の歩みも考えるようになる。
大学2年生の時に参加した大林組名古屋支店の職場実習で対応した社員が、聴覚障がい者である野呂を分け隔てなく受け入れたことが、大林組で働きたいという想いにつながったと言う。
「対応してくれた社員は筆談や絵による方法で、視覚的にわかりやすく指導してくれました。また、私の緊張をほぐそうとコーヒーブレイクや周辺の建物を見学に行くなど、いろいろ配慮してくれました。
とてもありがたかったですし、私自身は緊張することもなく、研修のすべてが楽しく興味深い時間でした」
仕事もサッカーも「ボジティブ思考」と「切り替え」で自己実現
野呂が入社した1997年頃の大林組には「アスリート採用制度」はなく、限られた時間の中で仕事とサッカーのバランスを取りながら、ストイックに生活していた。
「平日の就業後は夜遅くまでサッカーの練習やトレーニング、週末は練習や試合、と超多忙な日々を送っていました。会社の近くに住んでいた時は、地下鉄に乗車して帰宅する代わりに走って帰り、トレーニング時間の足しにしたこともありました」
また、デフリンピック・サッカーチームの主将を任され、選手のメンタル面のサポートも必要になった。チームをまとめるため、監督と選手の間に入る場面が増えていった。
「理想的な主将像がはっきり描けずに悩んでいた時、偶然にも元鹿島アントラーズの選手に相談できる機会を得ました。その方からいただいた『自分らしさを出せばいい』というアドバイスが、自分のめざすべき主将像に開眼するきっかけとなりました。
自分らしく選手の気持ちや行動をくみ取り、全体の中で気づいたことを選手個人にそっと知らせながら、チームをまとめていくという自分のスタイルを徐々に洗練させて試合に勝ち切れるチームを作り上げ、デフリンピックで多くの結果を出すことができました」
現在所属する大林組名古屋支店見積部では「構造積算の専門家」として認められている。上司や同僚が、野呂の障がいを特別扱いしないからこそ、誰にでもわかりやすい資料作成や研修などの対応ができると話す。
「見積業務ではチームで確認し合って進めることを大切にしています。電話で簡単に確認することができない私は、チェック個所の画像とメモを添えた資料を作成しメールに添付するなど、工夫をしています。
また、耳から情報を得ることができないため、伝わりやすい文章の書き方を身につけることがとても難しかったのですが、上司から粘り強く丁寧に指導をしてもらえたので、それに応えるべく今も努力し続けています」
サッカーと仕事、取り組み方の共通点を聞いてみた。
「私は、聞こえないことで苦労したとしても努力をして改善することが重要と考え、できなかったことをいつまでも引きずらないように生きています。その習慣は、サッカーの試合や練習などで嫌なことがあっても次の日に持ち越さない、というものです。
気持ちを切り替え、できるだけポジティブに自分をコントロールするように心がけている点は、仕事も同じです」
「自分らしさ」を作ってくれたデフサッカーと東京2025デフリンピックへの熱い想い
現在、聴者のシニアサッカー・オーバー40/50、名古屋市リーグ、デフの安城リーグ、豊田リーグと5つもかけ持ちしている野呂。サッカーはほぼ一年中オンシーズンだが、オフの時は釣りに出かけ、潮の流れを見ながら魚を追ってリラックスしていると言う。
「家でじっとしていることはありません。妻も含め、家族それぞれが忙しく過ごしていても仲良くつながっています。
また、私は子どもたちにサッカーを勧めたり教えたりしたことはないのですが、気がつけば自然にサッカーを始めていました。また、以前、サッカー選手だった妻は、現在ろうの子どもたちにサッカーを教えています。
今もサッカーに打ち込んでいる私を家族が普通に受け入れているのは、サッカーをしている時の私が、家族にとって自然だからなのだと思っています。ですから、オーバー60になっても体力が続く限りは頑張りたいと思っています」
子どもの頃は控えめな子どもだった野呂が、積極的にコミュニケーションを取るようになったのは、デフサッカー選手として世界に出てからだ。
「世界に出ていくことで、自然にコミュニケーションができるようになったと思います。『東京2025デフリンピック』は共生社会の実現をめざしているので、私自身も障がいの有無に関わらず、皆が生きやすく協力しあえる世界にしていきたい、という強い想いを持っています。そのためにも、デフリンビックをみなさんに知ってもらいたいです」
デフリンピックの認知度はパラリンビックと比較すると圧倒的に低いが、今年は開催100周年かつ初の日本・東京開催であり、都内の認知度も上がってきている。大林組では、その機運醸成も兼ねて社員向けの手話カフェを開催し、野呂も講師として参画している。
「ろう同士は声をかける代わりに、肩に手でポンポンと触れることが当たり前ですが、誰でも急に肩を触れられたら驚きますよね。その感覚の違いを少しずつなくしていきたいです。
手話を一緒に学ぶことで参加してくれる人たちとの交流も深めていきたいと思っています。手話は手の形だけではなく動きの速さや強弱、顔の表情、うなずきなどを含む全体からお互いの意思疎通をするおもしろい言葉です。
だからこそ、さまざまな国や地域の文化を豊かに反映しています。そのおもしろさを多くの人たちに楽しく広めていくことで『東京2025デフリンピック』を盛り上げながら、誰もが希望を持って生きていける世の中にしていきたいと考えています」
※ 記載内容は2025年6月時点のものです
