オリンピックに出たい!自らの決断力と家族のサポートで目標達成へのステップを開始
現在、ダイバーシティ&インクルージョン推進部で活躍する家根谷。スノーボードは幼い頃からとても身近な存在だった。
「両親が神戸でスノーボードショップを経営していたため、小学3年生からスノーボードを始めました。兄が先にスノーボードを始めて大会に出ていたこともあり、私も始めた翌年から大会に出場するようになりました。
当時はジュニア選手がほとんどおらず、大会によっては2~3人ということもあり、レース中に何回転んでもゴールさえすれば表彰台に立つことができました。出るたびにメダルや賞品がもらえたため、それがうれしくて大会が好きになりました」
しかし、年々出場選手が増え、出場するだけでは表彰台には立てず、同年代の女子選手も増えてきて、「勝ちたい」という気持ちが芽生え始める。
「1998年の長野オリンピックでスノーボードが正式種目になることが決まっていたこともあり、小学生の頃から自然と一番大きな大会であるオリンピックに出たいと思うようになっていました。
オリンピックに出場するためには、まずは日本一になり、世界で戦えるようにならないといけないので、そのためにはもっと練習しなければいけないと考えました」
オリンピックを目標に定め、そこに至るステップを踏み出すために、最強のサポーターである家族の後押しを受け、高校生ながら大きな決断に踏み切る。
「地元は雪の降らない兵庫県神戸市です。金曜の夜に父の運転や夜行バスで長野県に行って練習し、月曜の早朝に帰ってきてそのまま学校に行く、という生活をしていました。練習量を増やすには雪のある所に行くしかないと思い、スノーボード部がある北海道の高校に進学を決めました。
遠いので両親は心配だったようですが、私の『やりたい』を応援し、快く送り出してくれました。この時に両親が私のことを信じ、目標に向かって突き進むことを応援してくれたことは、本当に感謝しています」
学生時代に培われた粘り強くチャレンジングな精神で、ついにオリンピアンに!
家根谷はオリンピック出場に向け、合宿所で高校生活を送る。
「高校での3年間は、スノーボード部のみんなと合宿所で共同生活をしました。通信制の高校だったので、早朝から夕方まで練習に明け暮れる毎日。体力的にも精神的にもハードでしたが、練習量に比例して成績も伸びていくのを実感したので、『練習量を増やすために雪のあるところに行く』というのは間違っていなかったと確信できました」
その反面、自身の目標達成のために進んだ道なのに、辞めたいと思うことがあったと言う。
「夏も冬も練習量が多くてつらかったことに加え、他の部員のほとんどが北海道出身だったので、週末はみんな実家に帰っていましたが、私の実家は遠方のため山奥の合宿所に残ることが多く、家族や地元の友人が恋しくなることもよくありました。
耐え切れなくなった時、両親に『辞めたい』と一度だけ言ったことがあります。自分のわがままで北海道に行ったので怒られるかと思いましたが、『帰ってきたら?』と優しく一言だけ言われました。そこでハッとし、『このまま諦めるわけにはいかない、オリンピックに出るんだ!』とあらためて腹をくくり直しました。
高校時代の練習量の多さや、さまざまな経験があったからこそ、何事も諦めず、粘り強い精神が培われたと思っています」
高校卒業後も合宿所に残り、先輩や後輩と一緒に練習できる環境がある中、あえて違う環境に飛び込み目標をつかみ取る。
「同じ環境にい続けてはさらなる成長はないと思い、北海道札幌市にある大学に入学し、スキー部に入部しました。私がやっていたスノーボード・アルペン種目はアルペンスキーと似ているところがあり、アルペンスキーは歴史も長い種目なので、スキー選手から学ぶことは多いはずと考えたからです。
そして2006年、大学3年の時に目標であったオリンピックに出場。大学卒業後は拠点を実家に戻し、地元の神戸からオリンピックに出場したいという想いを胸に練習を重ね、2010年のバンクーバー五輪にも出場することができました」
「世界一をめざす」が共通項。大林組との出会いで困難を克服し、新たなキャリアへ
トリノ・バンクーバーでオリンピアンとなった家根谷だが、その後もさまざまなハードルがあった。地元企業や後援会からのサポートはあったが、世界各国の試合を転戦するためには莫大な費用がかかるため競技を続けるのは難しいか、となかば諦めていた。
「ちょうどその頃、公益財団法人日本オリンピック委員会が行っていた、企業と現役アスリートをマッチングする就職支援制度『アスナビ』の存在を知り、エントリーシートを提出しました。そこで大林組に入社することになったのですが、大林組は当時、世界一高い電波塔・東京スカイツリーを建設しており、私も世界一をめざしていたので、とても縁を感じました。
大林組に入社できていなかったら、競技を続けることを諦めなければいけなかったかもしれないと思うと、本当に感謝の気持ちでいっぱいです」
2012年に入社。2014年のソチ五輪後に引退し、大林組の社員としてのセカンドキャリアをスタートさせるつもりだったが、ソチ五輪の出場はかなわなかった。
「どうしてもオリンピックを諦めることができなかったため、2018年の平昌五輪をめざしたいと会社に懇願しました。
平昌五輪に向けて調子が上がっていましたが、2016年の最終戦で膝の前十字靭帯を損傷し、手術が必要となってしまいました。調子が良かっただけに、怪我をした瞬間は絶望し、なんとか手術しないで続けられないか悩みましたが冷静に考え、また思い切って滑ることができるように手術を決断しました。
決断後は覚悟が決まり、もうやるしかないという気持ちで、自分でも驚くぐらい前向きに考えられるようになりました」
術後、リハビリを経て翌シーズンには競技に復帰。そのシーズンの冬季アジア大会では金メダルを獲得した。
「札幌で開催されたアジア大会は、大林組の札幌支店の皆さんが現地まで応援に来てくれて、本当にうれしかったです。
アジア大会で金メダルを取ることはできましたが、オリンピックの出場権を得られるワールドカップで十分な結果を残すことができず、残念ながら平昌五輪の出場はかないませんでした。
しかし、手術してチャレンジすると決め、できることはすべてやった結果でしたので、引退を決意することができました」
「好き」を見つけて成長し続けた経験が強み。誰もが活躍できる職場をつくりたい
スノーボード選手を引退後、家根谷は大林組の社員としてのセカンドキャリアをスタートした。
「競技をやっていたおかげで、『やってやるぞ!』という気持ちは人一倍強いと自負していますが、競技に専念していた期間に相当する知識・経験が不足しているため、周囲は私をどう扱っていいか、どこまで仕事を任せていいかなど、すごく難しかったのではと思います」
総務部、工事事務所の事務を担当する生産事務部を経て、グローバル経営戦略室ダイバーシティ&インクルージョン推進部所属となった現在、仕事への向き合い方にも変化があったと言う。
「以前は、事務職としての知識・経験が不足しているがゆえに『選手だったから仕方がない』と言われないように頑張ろう、とがむしゃらでした。しかし、ずっと仕事をしてきている社員の人との大きな差はどんなに頑張っても超えることはできません。
その分、私は他の人が経験できないようなことを経験してきたので、それを活かすべきだ、と、この部に来て気づかせてもらえました。みんないろいろなバックグラウンドを持っていて、一人ひとりが活躍できるようにすることが、この部署のミッションの1つだからです」
建設業においては異色な経歴を持つ家根谷から、大林組に興味がある人にメッセージを送る。
「私は幸いにも、子どもの頃に自身の『好き』を見つけることができ、目標に向かって突き進むことで応援してくれる人が増え、自身が頑張ることでその人たちが喜んでくれるから頑張り続けることができました。
仕事でもスポーツでも、目標を持って続けていればできなかったことができるようになり、できることが当たり前になってきます。そうなればまた新たな目標に向けて負荷をかけてレベルアップができる、という繰り返しで成長していけると思うので、日々社員の皆さんと共に成長していけるよう頑張りたい、選手時代に応援してくれた大林組に自身の経験を活かして還元したい、と思っています」
※ 記載内容は2024年11月時点のものです
