オーストラリアから日本の企業へ飛び込んできたプロジェクトマネージャー
飛田 勲は2019年、ゆめみにシステムアーキテクトとして入社。その後、1カ月に大規模プロジェクトに配属されました。
開発中のプロダクトのテストなどを取りまとめるテストマネージャーを経て、現在は銀行系のサービス開発というプロジェクトに携わっています。社内外合わせ総勢20名を超えるプロジェクトです。
飛田 「パートナー企業をはじめ、さまざまなステークホルダーがいて情報を統制するポジションがいなかったので、その流れを整理するのが僕の役目です。直近では開発やテストより、人と人とのコミュニケーションを円滑にしたり、仕様の整理をしたり、スケジュールをつくったりすることが多いです。すごくチャレンジングです(笑)」
チャレンジングというのもそのはず。飛田はゆめみに入社するまで、オーストラリアでアプリ開発の会社を経営していましたが、ゆめみで触れるプロジェクトの大きさや関わるステークホルダーの数の多さは前職では体験できなかったものなのです。
実は、飛田のもつ“ものづくりへの情熱“は中学時代にさかのぼります。
ものづくりへの情熱のままに、仕事に熱中する日々
最初にパソコンを触ったのは、中学生のころ。パソコンが家にあるのが珍しい時代でした。
飛田 「父に買ってもらって夢中でゲームをつくっていました。『ベーシックマガジン』という雑誌に自作のゲームを投稿して掲載されたことも何回かありました。ものをつくりたいというパッションは子どもの頃からありましたね」
大学では法学部に進みますが、やはり「ソフトウェアをつくりたい。ものづくりでひとを感動させたい」という想いには勝てず、旅行会社系列のソフトウェア開発企業に就職しました。そこではシステムエンジニアだけでなく顧客折衝などの業務を経験。その後、サイパン、グアムへと海外赴任も経験します。
飛田 「ウィンドサーフィンが好きで、サイパンやグアムに行きたいとよく話していたんです。それで願いが叶った(笑)。でもそれだけでなく、仕事はすごく楽しかったですね。システム管理など新しい業務をどんどん吸収して、お客様に密着して新しいものをどんどんつくっていくような毎日でした」
帰国後、飛田はキャリアを生かし、好奇心のままにいくつかの企業を渡り歩きます。そんな時、前職でお世話になった取引先の担当者から誘いを受けます。
「2000年問題の特殊なシステムに対応できる人材がオーストラリアにはいない。やってみないか」
好奇心旺盛な飛田はふたつ返事でオーストラリアへ渡ります。1999年10月でした。しかし2000年問題が解決した後も、飛田はオーストラリアに残りました。
飛田 「ずっとオーストラリアに住みたいと思うようになったんです」
永住権申請のために一度は帰国しますが、そこから約20年にわたるオーストラリア生活がスタートしたのです。飛田は、日本企業でシステムダイレクターや、銀行のプロジェクトマネージャー、オーストラリア政府の案件などさまざまなキャリアを積みました。
ある時、飛田は独立開業を決意します。理由は、子どもの誕生でした。
オーストラリアで、資金ゼロから自分の会社を立ち上げる
「子どもに自慢できる仕事がしたい。自分のやりたいことをやっている姿を見せたい」──。
こんな想いがあふれるようになってきたのです。当時、飛田が携わっていたのは、政府機関でプロジェクトの統廃合を進めるものでした。プロジェクトを統廃合すれば、おのずと人員も減っていくことになります。
飛田 「ひとの削減は嫌がられる仕事で、ひとを感動させられることができず、僕自身も前向きになりにくい。このままでは自分の時間をお金に変えているだけだという気持ちにもなったんです」
そこで飛田は、携帯電話のアプリケーションを開発する会社を起業。当時はようやく個人が携帯電話を持ち出したころ、市場はブルーオーシャン。「きっといける!」という目算がありました。
ただし資金がないので自らプログラムをつくり営業し、すべてをひとりでこなしました。最初に開発したのは、バサストという町で毎年開催されるカーレース目当ての観光客が対象のアプリ。
飛田 「バサストは人口4万人程度の小さな町ですが、催しの期間中は20万人にもなります。それで買い物や公衆トイレの位置など必要な情報を入手できるアプリをつくったんです。2000万円以上の利益になる!と思ったんですが実際は70ドル(笑)。すごくがんばったんですけどね。それが最初の仕事でした」
それでも、飛田は着実に実績を重ね、成長します。最終的に、20名程度のプロジェクトを任されるまでになり、最大6プロジェクトを並行して進めるほどの規模にまで会社を拡大できたのです。
飛田 「大きくなればなったで、いろんな苦労が出てきます。ものづくりはもちろん、プロジェクトマネージメント、ディベロッパーマネジメント、それにお客さまとの折衝も、すべて自分。それまでの企業勤めの経験の集大成のような感じでした。でも、あまり苦労とは思っていないんです。チャレンジ精神が強かったから、どれも楽しかったですね」
軌道に乗ったころ、さらなる転機が訪れます。飛田は、日本へ帰国することを決断。「いずれ、子どもには日本語で日本の文化を教えたい」と思っていたからでした。
日本の、ゆめみの“クオリティ”を世界へ届けたい!
「どうせ帰国するならおもしろい会社で働きたい」というのが希望。いろんな会社を探すなかで出会ったのが、ゆめみでした。
飛田 「ゆめみの会社のしくみは、斬新で今までにみたことがない。『こんなこと本当にできるの?!』というのが正直な印象。ぜひここで仕事がしたいと思いましたね」
入社してから期待や希望が裏切られることはありませんでした。
飛田 「まずプロジェクトの規模が違います。自分の会社でもっとも大規模だった案件は、ゆめみではいちばん小さい規模なんです。それに社内でのひと、お客さまとの付き合い方も、ゆめみで新たに学んでいます。そもそもお客様の層がこれまでとは全然違うんです」
さらに20年以上のキャリアを持ちながらも、あらためて仕事の仕方を学んだと飛田。
飛田 「以前はデベロッパーも僕が雇っているので、よくも悪くも『こうやっといて』と伝えるだけで済んでしまう。当時は予算がないから、できるだけ工数をかけないために、そういうやり方を選ばざるを得ないという状況でもあったんです。でも、いまは緻密に要件定義をして進行する重要性を知りました。実際、必要な工程には予算も認められます。それも、すごく新鮮。より精度の高い、お客様の要求に本当に近いものをつくるための、ものづくりを学んだような気がします」
仕事において他にも新鮮な体験はあります。
飛田 「Slackなど、ものごとを書いて残すという文化がゆめみは浸透しています。僕は話すのが大好きなので最初は慣れなかったけれど、リモートワークが必要ないまの状況などでは、これはいいなと実感しています」
“文化“といえば、飛田がいいなと思っているものがもうひとつ。
飛田 「ゆめみには困っているひとに手を差し伸べるという文化があります。それが自分の評価になるからではなく、本心から助けたいと思っている。そんな文化が根付いているんです」
自身も業務外で取り組んでいるのが「スクラム勉強会」。現在担当しているプロジェクトはほとんどがウォーターフォール開発。しかし飛田はアジャイル開発に魅力を感じているのです。
飛田 「どこかでアジャイルをいれたいと思ってスクラム勉強会に参加してます。これが、けっこう盛り上がっていて、いずれは委員会に昇格させて、みんなでスクラムしていける環境をつくれるといいなと。ゆめみで知ったのは、本当にゆめみのデベロッパーやプロジェクトマネージャーの質が高いこと。僕が今まで一緒にやってきたひとたちと比べると信じられないくらいです。このすごさをぜひ世界に知らせたいなと思います。そのためにも、僕の夢はゆめみのオーストラリアブランチをつくることなんです」
20年ぶりの日本で企業に勤め、大勢の仲間と共に、新鮮な刺激を受け、成長し続ける日々──。日本のクオリティを世界へ堂々と紹介する飛田の姿が見るのは、そう遠い未来ではなさそうです。