エスプールとの出会い──未経験の業界に新たな挑戦を求めて
2002年にエスプールに入社し、勤続20年を目前に控える馬越 中。グループ内でも古参にあたる彼は常に新しいことに目を向け挑戦してきた。
学生時代から新しいもの好きだった彼は、Windows95の登場を見たとき「次の時代はPCだ」と確信し、プログラマーを目指すために当時では珍しい情報処理科がある高校を受験した。倍率が高く、周りからは絶対に失敗すると言われていたが、時代の先駆者としてどうしてもプログラマーになりたいと、受験に挑んだ。
結果的に夢が叶うことは無かったが、この頃から失敗を恐れずに挑戦することに意義を持っていたと言う。
馬越 「新しいことを楽しむとか、新しいことに挑戦するという気持ちは30年たった今でもずっと変わりません。挑戦するのが好きなので、何事も失敗を覚悟で一回は試してみるようにしています」
その後も新たな挑戦を欲して、様々な職を経験する。
そんな彼がエスプールと出会ったのは2002年のことだった。
当時、通信機器を扱う会社にて歩合制の敏腕営業マンとして活躍していたが、5年ほど勤めていたところで、社長の交代を機に会社の方針が変わってしまった。
先代の人柄や方針に惚れ込んで入社した経緯があったため、新しい体制の下でこのまま続けていくことよりも、次の新しいことに挑戦することを選び、馬越は転職を決意する。
そして転職先を探す中、求人媒体でたまたま見つけた『未経験OK』と『人材関連』というワードに目が留まったと言う。
馬越は派遣業について当時まったく知らず、もちろん人材系は未経験であったが、新しいことに挑戦しようと考えてエスプールに応募し、後の人事部長である米川 幸次と面接。
面接直後、特に内定の明示を受ける訳でもなく2人で飲みに行くという不思議な出来事を経て、入社することとなった。
「そんなに言うなら俺がやってやる!」営業先での喧嘩から始まった物流挑戦
入社後、広島支店で登録されたスタッフに派遣先を紹介する仕事をすることとなる。
しかし、当時は案件が少なく、登録に来てくれる人はいるものの、紹介する仕事が不足している状態が続いたと言う。
馬越 「当時は、売上的にも厳しい状態が続いていたので、仕事を獲得するため営業に奔走しました。最初はテレアポをやっていたんですが、それでもまだ足りないから飛び込み営業をやろうとなり、倉庫街をよく回りました。結果は大惨敗でしたね(笑)。どこへ行っても門前払い。無名でしたし、話もまったく聞いてくれませんでした」
新参の会社の飛び込み営業はまったく相手にされないことが多かったが、臆せず数を重ねた。そんな中、とある倉庫で派遣について不満をこぼすセンター長と出会う。
このセンター長との出会いが新しい挑戦に繋がった。
馬越 「話を聞いていくうちに『どうせ新しい人材会社なんてどこもダメだ。いい人を連れてくるって言って、口先だけ。最初はいい人を入れてもその後が続かない』と言われたので、だんだん頭にきて、『だったら俺がやってやるよ』と宣言してしまって。支店長に報告したら『誰が営業やるんだよ』って怒られましたが(笑)」
売り言葉に買い言葉、半ば喧嘩のような流れで、物流の知識も経験もまったくないまま馬越自身がその現場で働くことになる。
これがその後、エスプールヒューマンソリューションズを支えていくことになる、FC(フィールドコンサルタント)と呼ばれる、現場に常駐してスタッフを取りまとめるリーダー職の走りであった。
物流に関して全くの素人であったが、内側に入ったことで現状を知り、クライアントと二人三脚で体制を組み立てていった。結果的に数十人のメンバーを一新したことで、見事にクライアントの信頼を勝ち取る。物流への挑戦は、馬越にとって充実した日々をもたらす経験となった。
馬越 「物流を知らなかったときは、この仕事を軽く見ているところが正直ありました。でもすぐにそれは間違っていたと気づかされました。奥が深くて、毎日楽しかったです。今までの販売や接客でやっていたことは毎日同じトークの繰り返しで、売れるようになるにつれ次第に飽きていた自分がいました。
しかし物流は、人が足りない、出荷指示のデータが来ない、時間がないと日々がギリギリの戦いで、挑戦の連続でした。そうして、同じ日が二度と訪れないこの業界を僕は好きになっていきました」
物流のプロフェッショナルとして発信する側に。「マコ師」の新たな挑戦
2021年、馬越は新たな挑戦を始めた。
社内の新規プロジェクトの一環として、物流のプロとして培ったノウハウを外部に発信したら面白いのではないかという声が上がり、馬越自身も前から興味があったことから、YouTubeに挑戦することになった。
品川センター副センター長として、様々な業務を抱えている中、新卒1年目の山崎 睦とタッグを組み撮影を始め、ついに9月に『マコ師と学ぶECチャンネル』を開設した。
馬越 「やってみると想像していた数倍大変でした。話すのも編集するのも大変で、試行錯誤している最中です。台本を予め用意して話したり、ただ読んでるだけにならないように、目線を上げる為にカメラ側に台本を置いたりもしたけど、何かを見てしゃべると硬くなってしまうので、今はキーワードだけのメモを置いて台本なしでやっています」
登録者数100名、1本当たりの視聴回数1000再生を目標に取り組んでいるが、センターの管理者として多忙な馬越が動画作成のために割くことができるのは週に1時間のみ。その限られた時間の中で、撮影から次回のネタ決めまで行っている。
もちろん、ネタを決めてから撮影までに情報を準備する必要がある。物流に関して社内でトップクラスの経験を有するプロフェッショナルであり、長年培ったノウハウがあっても、伝える情報の正確性を高めるために常に勉強を怠らない。
共同作業者であり、撮影者でもある山崎は、撮影に臨む馬越の姿勢に驚いていると言う。
山崎 「撮影日には『忙しいよ~やばいよ~』と言いながらも、現状を分析し改善するためのアイデアを出してきます。一切妥協せず、挑戦することを楽しんでいる姿にはいつも驚いています。それに、新人の私の意見にも耳を傾けて、次の撮影時に採り入れてくださるんです」
YouTube撮影に関わらず、社歴に関係なく誰に対しても平等に接する。どんな状況でも部下からの質問や意見に耳を傾け、コミュニケーションを大事にする。
その背景には過去の苦い出来事が影響していた。
記憶に残り続ける、涙の朝礼。人と人との絆に助けられてこそ挑戦できる
エスプールValueの『CHALLENGE 失敗を恐れずチャレンジする!』を体現するかのように、常に挑戦を続けてきた馬越。
勤続20年を目前に控える彼が、エスプール人生で一番印象深い出来事と挙げるのは、2015年広島営業所の撤退である。
当時、約5000坪の土地に2つのセンターを有し、合計300人ほどの従業員を抱えていた大規模な広島営業所の朝礼で、馬越は統括所長として広島からの撤退を告げた。
馬越 「撤退を告げる際は本当に苦しかったです。朝礼で営業所がなくなる、仕事がなくなることを話している時、何人も泣いていた。仕事を楽しんでいてくれた方、好きでいてくれた方が多くいましたから。
目の前でメンバーが泣いている姿を見ると私も泣きそうになったんですが、正しく伝えなくてはいけないから我慢しました。でもやっぱり辛かったです。この光景は未だに思い出して夢に見ますね」
300人が突然職を失うという状況でも、短期間での撤退をなんとか進めることができた馬越。その要因を、それまで築いてきた家族のような関係性があったからだと語る。
馬越 「みんな『馬越さんが言うならしょうがない』と言って、事情を汲んでくれたんです。このとき、本当にありがたみを感じました。300人は苦楽を共にした存在で、まさに家族のような存在だったので最後を迎えたとき『今までちゃんと向き合ってきてよかった』と実感しました」
改めて人と人との絆の大切さを感じた馬越は、仲間との関わりをより一層大事にすることになり、部下に対して家族のように接することを今もポリシーとしている。
──どんな挑戦であろうと、その挑戦の影には必ず誰かの助けがある。
エスプールという新たな環境へ挑戦する際には家族の支えがあり、FCとして物流倉庫に挑戦した際も支えてくれた先輩がいた。YouTubeも部下とタッグを組んで作り上げている。
馬越はこれからも、仲間を大切にし、常に新しいことを探し続け貪欲に挑戦し続ける。