未来は自分で勝ち取っていくもの――カミュの実存主義に傾倒した青年時代

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▲左:小学校2年生の頃/左:友人(写真右)と哲学を語りあった高校時代

1953年、徳島県で生まれた都築の幼少期の夢は昆虫博士でした。

都築 「昆虫が大好きで、虫を捕まえてはポケットに入れて持ち帰っていました。それがある時ポケットがいっぱいになり、口の中に入れて持ち帰ろうとしたら、バッタに口を噛まれて。それ以来、昆虫がダメになってしまいました(笑)」

早々に昆虫博士の夢が潰えて以降、今の仕事につながる原体験となるような思い出は、とくになかったと言います。

都築 「ただ強いて言えば、本を読むのは好きでしたね。かなり小さい頃に『ヘンゼルとグレーテル』をすべて暗記していたというのが、母親の自慢だったようです(笑)」

実際、本は都築の人生に大きな影響を与えました。もっとも本を読んだのは高校生の頃。「ある意味頭でっかちで、傲慢な青年だった」と当時を振り返り、生きる意味の解を求めて、当時全盛であった大江健三郎や三島由紀夫、カミュ、サルトルなどの不条理文学と言われる作家たちの本を読みあさったと語ります。

都築 「一番影響を受けたのは、カミュですね。人生にあらかじめ意味などあるわけではなく、それを一つひとつ探しながら生きていく――つまり自分で自分の未来を勝ち取っていくのだというような実存主義の考え方に共感したんです」

実存主義に傾倒し、冷めたニヒリズムと強烈な希望の狭間を揺れ動いたこの時期の思考の経験が、都築を小学館に導くこととなり、就職活動時、“実は最もやりたかった”映画の仕事を志すも不況産業だったため就職はかなわず、公募をしていた数少ない出版社だった小学館に応募。その面接で、実存主義に関する自らの考えを話しました。

都築 「就職活動の面接で、そういう観念的な話をする学生は大抵落とされるのに、なぜか通ってしまった。小学館はよくそんな青臭いやつを取ってくれたなと思いましたね(笑)。ただ “ 自分で自分の未来を切り拓いていくしかない ”という当時培われた考え方は、その後の私のベースになっていました」

こうして都築は、小学館の一員となったのでした。

漫画家・あだち充との出会いから、編集者としての人生を生きる

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▲あだち充先生(左)とロサンゼルスでの一枚

小学館での都築の希望は、映画になるような小説や、当時小学館にはなかったビジュアルを多用した新しいライフスタイル雑誌を手掛けること。しかし、配属されたのは『少女コミック』編集部でした。

都築 「まったく希望していなかった部署でしたね。本は好きでも、漫画は読んでいないし、ましてや少女漫画にはまったく興味がなかった。それを毎日読まなければいけないのが、苦痛で苦痛で仕方がなかったです」

そんな日々を送っていた頃に、転機が訪れます。漫画家・あだち充との出会いでした。

今でこそ著名な漫画家のあだち充氏ですが、デビュー間もない頃に『少年サンデー』で始めた連載がうまく行かず、活動の場を『少女コミック』へ移していた時期でした。

都築 「少女漫画の絵はすべて同じに見えていたけど、あだちさんの漫画だけは読むことができた。彼のおかげで、かろうじて呼吸ができたような状態でした」

心ならずも少女漫画に携わるというお互いの似た境遇から、あだち充と都築は、青春時代の話からプロ野球の試合の話まで、さまざまなことを語り合いました。それは作家と編集者というよりも「普通の友人同士のようだった」と、都築は当時を振り返ります。ある時、いつになく仕事の話になり、男の作家が『少女コミック』で何を描くべきかについて議論し合いました。

都築 「そこで、少女漫画の王道をやるのはやめようと腹をくくり、当時自分たちがおもしろいと思っていたホームドラマをテーマにした作品をつくろうと決めたんです」

そうして誕生したのが、下宿屋“ひだまり”のひとつ屋根の下で高校生の男女が暮らす青春ラブコメディ『陽あたり良好!』でした。『陽あたり良好!』は好評を博し、連載終了後はドラマ化されるほどのヒットに。その実績を認められたあだち充は、再び活動の場を『少年サンデー』へと戻して『タッチ』の連載をスタート。これもまた『少年サンデー』の史上最高部数を記録するほどの国民的大ヒット作となりました。

編集者としていくつもの失敗を経験。“個を活かす”大切さを学ぶ

『陽あたり良好!』のヒットを生み出したことにより、都築は編集者としての自信を得たと言います。

都築 「たまたま友達同士でつくったものが成功しただけなのに、調子にのって自分には編集者としての才能があるんじゃないかと信じてしまったわけです」

それまでは、編集者として“それほど熱い想いがなかった”にも関わらず、あだち充に次ぐスターを発掘し、育てたいという熱い想いを抱くようになります。

都築 「こういう作家に育てたいという強いイメージを描き、作家をその通りに育てようとしたんです。しかし自分の勝手な思い込みを押しつけても、当然作家は育たない。それで何人もの作家に迷惑をかけてしまいました」

忘れられないのは、ある作家の家族に電話口で投げつけられた言葉。

都築 「『お前が妻を潰したんだ!』と、電話を叩き切られたことがありました。申し訳なさでいっぱいになった。僕は間違っていたんですよね」

そうした経験により、編集者として自信を失うこともあったと話します。

都築 「彼らの辛辣な言葉に当然自信を失いました。しかし失敗から学び、成長していかなければと前を向きました。何人もの作家につらい想いをさせ、ある意味踏み台にして自分は成長してきたという想いは、今も忘れません」

都築が失敗から得た学びとは、“個を活かす”大切さ。作家の個性を活かしながら、かつ読者の求めるものにつなげていくことが、自分が果たすべき役割だと気づきます。こうして都築の編集者としてのスタイルが確立されていきました。

都築 「それも、『少女コミック』の編集担当だったからこそ、気づき得た学びだと思います。なぜなら少女漫画は、男の編集者には原体験がないから、作家とある種の距離感がある。距離感があるからこそ、この人をどう活かすかを絶えず考えるようになったんです」

“個を活かす”考え方は、社長となった現在でも、マネジメントの基本方針となっています。強いリーダーシップで自分と同じ考え方の人間を育てていくというよりも、考え方の違い=多様性を尊重し、個を活かすことで組織の力に変えていく――それが、社長・都築のやり方なのです。

熱き想いを抱いてShoProの社長にーー「この会社の未来は、君たちだ」

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都築は『少女コミック』のほか『少年サンデー』の編集長などを歴任後、小学館の取締役となり、2011年からShoProの社外取締役を兼務するようになりました。

都築 「 ShoProでの仕事の比重が大きくなっていくにつれ、この会社の未来を思う時間が増えていきました」

そして2015年、都築は小学館を退社し、ShoProの社長に就任しました。

都築が目指すShoProの未来の姿――そのひとつが“もっと自由な会社”です。

都築 「今も自由な会社ではあるけれど、もっと若い人が自分の意見をぶつけたり、新しいことにチャレンジできるような社風をつくりたい。10打数 10安打の人なんてありえないんだから、失敗を恐れずどんどんチャレンジしてほしいですね。言い換えれば、もっと“ 変なことをしてもいいんだよ ”と言いたい(笑)」

それも、ShoProが経営理念に掲げる「エデュテインメント」を創造していくため。学びに楽しさをプラスし、娯楽に学びの要素が備わっているというShoProらしいエデュテインメントを創造し提案していくクリエイティブな会社であるために、「自由であることが必要」だと都築は言います。そして都築が社長になってからというもの、人事や働き方に関する制度的な環境整備が進むとともに、新しいアイデアを事業化していく動きが進んでいます。

都築 「 10打数 1安打でもかまわないので、どんどん新しいアイデアを提案してほしい。しかし大切なのは、われわれがそれをしっかりフィードバックしてブラッシュアップしていくこと。その時に判断基準とするのが、私たちの行動指針である『売り手よし、買い手よし、世間よし』の視点です」

多様性を歓迎し、個を活かす都築のスタイルは、新しいShoProの未来につながる変化の芽を確実に生み始めています。

都築 「社員の皆さんが、この会社は自分たちの力で変えることができるんだと実感してほしい。私は社長になった時から、ShoProが好き。でもこの会社の未来をつくるのは、私ではなく社員の皆さん。会社の未来は、君たちそのものなんだと伝えたいですね」

実存主義に根差した都築からの、強烈な希望が込められたメッセージです。