ゼロから始めたエンジニア。チームワークに支えられて得られた成功体験
2021年4月のPR Table入社より売上処理担当、IT担当、経理補助を経て、現在、営業サポートのマネージャーを務める小園 美穂。そのキャリアのスタート地点は、全く素人からのシステム・エンジニアでした。
小園 「まだ、パソコンが立方体の魚群探知機のようだった時代です。大学の専攻は文系で、今考えれば全くの素人。なのに全く畑違いの情報システム部に配属されました。新人だし、最初は雑用ばかりだったのですが、その雑用がいやでいやで(笑)」
上司に直訴して、小園は早々にプログラミングの業務に就きます。ところが、一人前へ至る道は厳しいものでした。
小園 「家にプログラムリストを持ち帰って、泣きべそかきながら、夜な夜な頑張りました。寝ても覚めても、プログラム。夢の中でまでプログラムを組んでいたりして。自ら手をあげてしまったので、引くに引けない。自分の負けん気に引きずられていました(笑)。上司から『向いていたんだね』という一言を引き出せたときには全身全霊でガッツポーズでした」
仕事は大好きだったという小園ですが、すべてが順風満帆というわけではありませんでした。
小園 「全社利用のシステムがトラブルを起こして、復旧のプレッシャーに震えたこともありました。トラブル解決に、夜中まで唸っていたこともあります。組織を横断するようなシステムを構築するときには、社内SEということもあり、技術面より各部門との折衝で苦労することも多かったです」
困難があっても、最後まで逃げない。そんなスタンスで立ち向かっていくなかで、「自分は絶対にできる。自分を信じる」という大きな自信が育っていきました。成功体験の裏には組織のチームワークがあったと言います。
小園 「情報システム部という部門自体が若く、みんな前を向いていて、部の中は家族的でした。上司も先輩も同期も後輩も、いつも背中で支えあっているような、まさに部まるごとのチームワーク。それで走り抜けていけました」
しかし、そのキャリアは、11年で終わりを告げます。小園は夫の転勤に伴って退職することになったのです。
新たな挑戦の矢先に、体調が悪化。立ち止まって自分自身の限界を悟る
大阪から神奈川へとやってきた小園は、不安にかられて、すぐに働きはじめます。
小園 「これまで仕事一色でしたし、私のアイデンティティはどこへいくのだろうという不安。それに、ITには強いですが、世間でいう普通の事務ワークをこなせるのだろうかという焦りがありました」
IT関連企業への派遣業務で、小園は今のポジションにつながる営業事務サポート業務に従事します。
小園 「ずっとパソコン相手に仕事してきたので、そこはまた一からですね。IT面で苦労がなかったのは幸いでしたが、しばらくは大変でした。でも、目の前の相手を応援できる温度感っていいなと実感しました。これまでは、システムを通しての会話、システムを通しての支援でしたから」
小園は職場にもなじみ、サポートという仕事に喜びを感じていきます。新しい職場もまた家族的で、楽しく過ごしていた矢先。環境とは裏腹に体調が優れなくなっていったのです。
小園 「年齢の曲がり角もあって、じわじわとこれまでの負担が現れてきました。心に体は伴わないのだなと、初めて気づきました」
そして、ようやくなじんだ職場をまた思いがけず去ることになったのです。
小園 「残念でした。1年と少しでしたかね。最初は戸惑いもたくさんありましたが、全く違う温度を持った目前の人を応援するという仕事の喜びを知った、短いけれど、濃い時間になりました」
その後、体を復調させるために長い時間を要し、同時に不妊治療をはじめた小園。頑張るだけでは、自身でどうにもならないことがあると知りました。走り続けてきた小園にとって、それは初めて立ち止まって、人生を振り返る時間でもあったのです。
小園 「ハイテンションで走ってきた自分の中に垣間見える傲慢さにも気づきました。こうあるべき、やればできる、できないのは怠慢だと、それが自分のアウトラインでもあったんです。
ですが、考えてみれば、いつも、人との出会いと支えで自分の人生が成り立ってきたのだな、自分だけの力だったことは何一つなかったなと考えるようになりました。少し、人にやさしくなりましたね」
「まだできる、またやりたい」──キャリア復帰を実現させた、幸運な出会い
徐々に体調も戻り、念願叶って子宝にも恵まれ、育児に奮闘する日々を過ごす小園。
しかし、子どもの成長とともに、生活が落ち着いてくると、小園の中で次第にある気持ちが頭をもたげてきました。
小園 「育児は大変でしたが、それとは別に、『どこかで、なにかやり残したのではないか』という気持ちがでてきました。キャリアの中断ということもありましたし、まだ、できるんじゃないか、もう少しやりたいという気持ち。
とはいえ、小さな子を抱えていますし、働きたい気持ちがあっても環境がない。この国は子育て中の母親のキャリアに、なんて冷たいのだろうと実感しました」
そんな時出会ったのが、後にPR Tableで同僚になる川村 千智です。
小園 「川村さんとはいわゆる、ママ友でしたが、それまであまり話したことはなくて。それが、ふと、仕事を探しているという雑談から、キャリアとマッチしていて、事情も考慮してくれそうだと仕事をピックアップしてきてくれたのです」
そして、小園はベトナムオフショアIT企業の日本法人で、10年ぶりのキャリア復帰を果たしました。
小園 「10年のキャリアロスに、ベトナムの方とのコミュニケーションの難しさ。ベトナム本社は創業15年を超えていましたが、事務サポートと窓口のための拠点であった日本法人はなにも整っていなくて、自分も会社もまた一からでした」
少人数で、アットホーム、ベトナムの方とも交流がすすみ、10年のキャリアロスに関しても寛容で、職場に感謝しかないという小園でしたが、次第にもの足りなさを感じます。
小園 「業務自体への不満というよりは、一体感というのでしょうか。もっと、共有して、応援して、一緒に走りたいという欲求がありましたが、それがままならない。私の中では、前職の、目前で相手を応援できたあの温度感、そして、いつもだれかが背中を支えてくれるようなチームワーク、それが忘れられませんでした」
次は自分がだれかの背中を支える力になって、そして、同じ目標にむかって、一緒に走っていきたい。そんな気持ちを抱えた小園に手を差し伸べたのは、またも川村でした。一足先にPR Tableにジョインしていた川村から連絡がきたのです。
小園 「『キャリアを活かせそうなポジションができたのだけど、うちの会社に来ない?』と彼女がいったとき、本当に縁だなと。やっぱり、人生で大切なのは人との出会いだなと心から思いました」
PR Tableの「頼れる母」を目指して共に歩んだ一年半
はじめは、PR Tableで働く明確なイメージはなかったと言う小園。
小園 「話を聞いていくうちに、出会いをつなぐプロダクトを提供しているのはとても素敵だなと思うようになりました。それに働く環境が最高によかった。フルリモートで、フレックス制。育児の予測不能な事情にも寛容です」
しかし、やさしい勤務環境とは別に、小園はスタートアップ企業の洗礼を受けます。
小園 「マニュアルも引継ぎフローも整ってない、調査が必要な課題が山積み。それに、自分の中から大企業の働き方が抜けていないことも大きなハードルになりました。これまでは、すべてが準備され恵まれた環境で働いていたのだと痛感しましたね」
友人でもあり、最初の上司にもなった川村には、徹底的に意識変革を求められたという小園。自分の年齢的な衰えも感じながらも、最後まで逃げないというスタンスは健在で、この一年半を乗り越えてきました。また、家族の助けも大きかったと振り返ります。
小園 「次第に夫が家事に参戦してくれる日が増えてきました。キャリアへの再トライに臨む背中に、並々ならぬものを感じたのかなと思います。私が忙しくなり、子どもも寂しい時間が増えたと思いますが、懸命に応援してくれています」
苦しい時期を乗り越えた小園は、ビジネス・サポート(現在は営業サポート)という部署の立ち上げに携わり、マネージャーに就任しました。
小園 「振り返れば、私のキャリアはいつも一からはじめることばかりだったなと思います。でも、結局それが好きなのでしょうね(笑)」
異なる場所で何度もスタートを切ってきた、小園のキャリア。しかし、これまで積み重ねてきた経験が、小園の心境に良い変化をもたらしていると言います。
小園 「『営業部のお母さんみたいな存在になりたいんだよ』というと、素敵ですと笑ってくれるメンバーと一緒に頭を悩ませ、ありがとうの言葉を欠かさない営業さんたちに励まされ、その背中を支える方法に試行錯誤を重ねてきました。
そして、いつでも自分も誰かに支えられているのだということ、それを忘れないようにと、心に留めています。それが20代の頃にはなかった、40代の私です」
新しい扉を開けるのはいつでもいいのだと小園は言います。
小園 「思い立ったときがそのとき。そうして、キャリアを中断した方も、素敵な企業と出会って、世の中にたくさん飛び出してこられるといいなと、心から思っています。私がPR Tableと出会ったように」