無限に開かれた世界への憧れ。心の赴くまま、学びを深めた学生時代
テレビや映画で時折目にした、パソコンを巧みに操作する俳優たちの姿。小学生だった松本は、そんな映像を見て「将来はあんな風にパソコンを使いこなす仕事がしたい」と漠然と考えるようになっていきました。
子どものころに抱いた憧れはそのまま色あせることなく、高校では電気科に進学。パソコンを初めて購入し、幼き日に夢見た「パソコンの前でキーボードをパチパチ叩く人」の仲間入りを果たします。
高校では電気工事などの強電から電子回路などの弱電まで、幅広く学習したという松本。中でもパソコンに関する専門的な授業は、楽しみながら受けられたといいます。
松本 「とくに興味を持って学んだのは、情報処理関係の科目ですね。パソコンそのものの基礎、それからプログラミングやCADの基礎なども高校で学びました」
その後、大学で電子情報技術科を専攻。自らの適性への理解を深めた松本は、情報通信技術の世界にいっそう没頭していきます。
松本 「プログラミングや情報処理を学んでいたのですが、本格的に学び始めると、自分はどうも『プログラミングには向いていないな』と感じるようになったんです。将来の仕事として考えたとき、プログラマーとして働き続ける自分の姿がイメージできなかった。なんとなく閉ざされた感じがして、あまりピンとこなかったんです。
反対に情報処理、とくにネットワーク関連については学んでいてワクワクしました。パソコンを通じてさまざまな情報が収集できるし、知らない人ともつながれる。そんなところから、目の前のパソコンが世界へ通じるドアのように思えて大きな魅力を感じたんです」
パソコンの向こうに広がる未知の世界に強く惹かれた松本。学習と実践を繰り返し、豊富な知識と高度な技術を身につけていきます。
松本 「もちろん、学生らしく勉強の他にアルバイトや遊びなどにも熱心でした。寮暮らしだったので、寮内の先輩たちとも仲良くなり、夜遅くまでサッカーしたり。今振り返るとあっという間でかなり密度の濃い大学時代を過ごせたと思います」
希望通りの就職が実現するも、若手時代には手痛いミスも
もともと地元長野での就職を希望していた松本。いくつかの内定を得た中から、東京に本社を置く駅務機器メーカーの長野工場で働くことを選びます。
松本 「地元では大きく、知名度もある企業でした。当時は終身雇用を念頭に置いていたこともあり、安心して働くことができましたね。システム管理部に配属されて、生産基幹システムやエンハンス開発を担当するなど、自分のやりたいことに力を注げる環境に満足していたと思います」
順調に社会人生活をスタートさせ、安定した活躍を続けてきたように見える松本ですが、若手のころにはもちろん失敗も。
松本 「入社当初、プログラミング言語であるCOBOL(コボル)の勉強で、テスト機サーバーを使って作業していたんです。毎朝電源を入れ、作業終了とともに毎日電源を落とし、シャットダウンしていました。やがてテスト機から離れ、本番サーバーで作業できるようになったとき、作業が終わりいつもと同じようにシャットダウンしてしまったんです。
もちろん、システムが落ちますから、就業時間中だった社内がたちまちざわついて……。加えて、各方面から問い合わせの電話が一斉に鳴り出しました。異変に気づいた先輩が私に『もしかして、電源落とした?』とひと言。同時にことの重大さを悟って、冷や汗をかいたのを覚えています」
幸い、すぐに電源を入れ直し、ことなきを得ますが、内心、松本の動揺は相当なものだったといいます。
松本 「とにかく『やってしまった』という思いでしたね。ですがそれ以来、『慣れ』に流されることなく注意深く動くようになりましたし、ごく基本的と思えることでも慎重に確認し、ケアレスミスを防ぐよう心掛けるようになりました」
手痛いミスは、松本にとって苦い思い出であると同時に、エンジニアとして次のステップへと進むための貴重な経験でもあったというわけです。
求めたのは、働きがいと幸福感。昇進とともに見つめ直したキャリアパス
キャリアを重ねたのち、松本は本社へ転勤。社内SEとして全社的なシステム管理業務を任されるようになります。そして39歳を迎えると、課長に昇進。プレーヤーとして引き続き活躍するとともに、部下をマネジメントする立場になりました。
松本 「当時、30代で課長になったのは私が初めてでした。およそ20年働いてきたことになりますが、定年までちょうど折り返しの分岐点。そう考えたとき、あらためて自分の今後を考え直すようになったんです」
プレーヤーに徹していたころと違い、部下の業務管理などの仕事が上乗せされた状況は、松本にとってなかなか厳しいものでした。
松本 「部下といっても、もともとは先輩だった人で私より年上の方もいましたので、関係性をいかにして整えて行くか、悩むことが多くなりましたね。
相手のことを深く分析し、それぞれに合った言い方で指示を出さなければならない。ところが、もともと仕事中の雑談が少なく、社員間の密なコミュニケーションがとれているとはいいがたい環境だったんです」
メンバーの人柄を十分に知らないままマネジメントする必要があることに加え、以前通りプレーヤーとして活動することも求められます。時間的にも労力的にも負荷が重なったことが、これからのキャリアを見つめ直すきっかけとなりました。
松本 「個人的にはもっとプレーヤーとして活躍したいという気持ちがあったので、管理職となり、二足のわらじを履くことに負担を感じるようになって……。そのうちに、『このままの形で進んでいっていいんだろうか、定年を迎えるときに後悔なく笑顔で迎えられるだろうか』と疑問がわいてきたんです」
この先、自分の思う働き方がここでは得られないかもしれない──そう考えた松本の脳裏に、やがて「転職」という言葉が浮かびます。
松本 「地方だと、一つの会社を定年まで勤めあげるのが美徳であって、途中で退職することにあまり良いイメージを持たれません。当然私も同じように考えていたんですが、コロナ禍の影響もあって、友人など周囲の人が働き方を変えたり、転職したりしているのを聞いているうちに、『もしかしたら転職は悪いことではなく、むしろ人生の軌道修正なのかもしれない』という考えに変わっていったんです」
そして、「自分の気持ちに正直に、後悔のないようやるだけやってみよう」と転職活動を開始。その際、松本が軸としたのは、働きがいと幸福感でした。
松本 「もちろんキャリアアップも含めてのことですが、純粋に仕事自体をもっと楽しみたかった。業務内容に納得し、わくわくとした気持ちを持ちながら仕事に従事する。そんなことができる環境を求めていたんです」
さらなる飛躍を目指して、新たなステージに立つ
転職活動を始めた当初は、地元長野で勤務できる企業を探していましたが、希望に叶う企業はなかなか見つかりません。しかし、リモートで勤務できる企業が少なくないことに気づいたことで、事態が急展開します。
松本 「リモートで働ける企業を探す中で、ひときわ目を引いたのがPR Tableでした。会社が掲げるビジョン、ミッションに共感できましたし、何よりtalentbookというコンテンツが刺さりましたね。社員の想いや価値観を綴って半生をストーリーという形にし、社の内外へと発信する──。それにより、その社員はもちろん、会社も、それを見た人も、全ての人を笑顔にできる素敵なコンテンツだなと感じました。そして、それによって人と人との結びつきが強くなると思うんです。
『自分をオープンにしなければ、人との信頼関係は築けない』と前職時代に肌で感じていたこともあって、その点をカバーしながら笑顔をつないでいくというポテンシャルを秘めたtalentbookに関われることに、強い期待を感じました」
その後、PR Tableの面接を受け、内定。入社前から松本は、新しい挑戦に心を踊らせていたといいます。
松本 「前職には安定というメリットがありました。しかしここには、楽しさ、刺激がある。楽しみながら仕事をしたいと考えていた私にとって、この環境は願ったり叶ったり。早く会社に貢献したいと思っていました」
新しい仕事への意気込みにも、並々ならぬものがあるようです。
松本 「情報システム専任のポジションに就くのは、私が初めてと聞きました。それなら、これまで手が回っていなかった部分、弱かった部分があれば補い、強みとなる部分はさらに伸ばして、みんなが仕事をしやすくなる環境を築いていきたい。守りと攻めを意識して会社としての業務効率や収益率がより良くなるよう、持てる力を精一杯発揮して活躍したいですね。
これまで培った経験をもとに、新しいツールやソリューションをどんどん提案、導入したいと思いますし、セキュリティ面にも目を配らなければと。プレーヤーとしてやれることを全力で行い、会社とともに成長していくことが今の目標です」
“仕事にはいつも全力で”。そう考える松本は、自身の趣味に対しても全力です。有名無名にかかわらず、ライブハウスに行くのが好きという彼にとって、音楽は趣味の範疇を超えた、人生と切り離すことができないほど大切なもの。音楽を通じた交友関係も広く、数十年以上にわたる付き合いもあるといいます。
仕事に疲れたときは、ライブハウスで、好きなバンドの音に合わせて体を動かし気分転換する。そんなメリハリのきいた生き方が、松本にとって仕事への意欲を維持し続ける秘訣なのかもしれません。