寂しさをバネに。自分を守るため明るく振る舞うことを覚えた幼少期

article image 1
▲子ども時代の川島。茨城県ひたちなか市で生まれ育った

いつも周囲を楽しまようとするサービス精神旺盛な川島飛鳥。しかし、意外にも幼少時代はそうではありませんでした。共働きの両親のもと、一人っ子として育った、その原体験を振り返ります。

川島 「母親は幼稚園の先生をやっていたんですが、両親ともに忙しかったので、いつも一人でいた記憶があります。幼稚園から小学校くらいまでは、私の中で“寂しい期”ですね」

そうした家庭内での寂しさの反動からか、友達と過ごして笑いあう瞬間が川島にとってかけがえのない大切な時間でした。

川島 「両親も喧嘩ばかりしていたし、家の中では自分を出せなくて、息が詰まる感じがしていましたね……。親にも反抗することが多かったかもしれません。

そんな時、友だちみんなが笑っている中で、自分も一緒に笑う時間がとても好きでした。幸福感と同時に安心感を得ることができたんです。だから、周りに対しても自然に明るく振舞って、その寂しさを自然に紛らわせてたのかもしれません」

東京に出てきて一人暮らしをしてからは、少しずつ両親との関係性も変わってきました。今では会社に母親を招いたり、友達を紹介したりするほどの仲に。

川島 「離れてみて初めて、色々やってくれてたんだなって気づいたんですよね。私が頑張っている姿を見せたり、どういう人たちと一緒にいるか教えてあげたいって思うようになりましたね」

はじめての挫折を経て、イベントコラボレーションで学んだ関係構築の大切さ

article image 2
▲イベントコラボレーション6期生。「女神まつり」本番前の授業

全校生徒70名ほどの小さな小学校で、グループのリーダー的存在として周囲を引っ張ってきた川島。しかし、中学に入学してはじめて大きな挫折を味わうことになります……。

川島 「些細な人間関係からバスケ部を2カ月で退部してしまったんです。これまでの小さなコミュニティから一変して、急な環境の変化にとまどってしまって。終わった……って思いました(笑)」

そんな時、自分から少し距離を置く存在だった母親が、とことんまで落ちていた彼女のことをすべて受け入れてくれたのです。その安心感からか、見事に復活を果たした川島は、持ち前のリーダーシップを発揮して、体育祭の副団長を務めるほどに。

川島 「この頃から自分で考えて、イベントを企画したりするのが好きでした。当時は結婚式のプランナーになりたいと思っていたんです」

自分で想像したものを形にすることで、誰かに喜んでもらう。幼少期の頃に芽生えた「人を喜ばせたい」という思いが、イベント企画という形で開花したのは大学時代のことでした。

川島 「授業の一環で、イベントコラボレーションというプロジェクトに参画しました。そのミッションは、毎年50万人が来場する『自由が丘女神まつり』の運営を通じて、自由が丘の魅力をプロモーションすること。その中でも、学生ではじめて広小路という地域を任せてもらえて、自分で考えた企画が実現することの喜びを知りました。

授業を履修した1年間はがむしゃらに頑張って、街の方々に交渉したり、さまざまな大人とコミュニケーションをとりながら関係を構築する術を学びました」

学校や部活の延長のような馴れ合いの関係性ではなく、本気でプロジェクトを成功させたいという想いで行動する素敵な大人たちとの出会い。ここで得た経験は川島にとって財産となり、現在の仕事への向き合い方にも繋がっています。

しかし、このプロジェクトで彼女はひとつ大きな失敗をしてしまうことになるのです。

中途半端は悔しさしか生まない。0か100という決断が生んだ出会い

article image 3
▲沖永良部島産のじゃがいも「春のささやき」の収穫のお手伝い(写真右から2番目:川島)

イベント企画の経験を通じて次第に自信をつけていった川島は、自由が丘のマスコットキャラクターのフラワーアートを使ったフォトスポットを企画してプロジェクトを主導していく立場となりました。

右も左もわからない中、想いを形にするのはどうしたらいいのか悪戦苦闘する日々。なんとかプロジェクトが進行しはじめたと思った矢先、思いも寄らない事態が起きてしまいます。

川島 「実は、フラワーアートに使うためのお花を私が預かっていたのですが、うまく管理できずに枯らしてしまったんです……」

故意ではなかったものの、彼女の中ではこの失敗に対して大きな責任を感じていました。当時は他にもバイトを掛け持ちしていたり、やりたいことを抱えすぎていて全てが中途半端な状態になってしまっていたのです。

川島 「何事も突っ走るタイプだったので。気づいたらパンパンになってしまっていたんですよね。中途半端は悔しさしか生まない、ってそこではじめて気づかされました」

その出来事がきっかけとなり、彼女の中では、物事を決めるときの基準がはっきりと変わりました。どちらかを選ばなければならないときは中途半端にせず、しっかりと天秤にかけて決断をする。まさに0か100か、という思考の癖がこのとき生まれました。

川島 「失敗もしましたが、前例も正解もない中、がむしゃらに頑張ることの大切さを学びました。この頃の経験があって本当に良かったと思います。それがないと、PR Tableでもきっと使い物にならなかったと思いますね」

このプロジェクトでは仕事の基本を学んだだけでなく、もう一つ、川島にとって大切な気持ちを得るきっかけとなる体験がありました。

川島 「大学2年生の夏休みに、群馬県のキャンプ場に1週間お手伝いに行ったんです。5時に起きてトマトを摘んだり、生のトウモロコシを食べたりして。それがなぜかとても感動したんです。そのときに感じたワクワクは、ずっと好きだったEXILEのライブで感じるワクワクにもなぜか似ていました」

それから川島は“地域”に興味を持ちはじめ、2年生最後の春休みには「島キャン」という島おこしインターンシップに参加します。訪れたのは沖永良部島。地元の茨城にも似た、狭くて深いコミュニティの温かい雰囲気に惹かれ、すっかり島の虜になっていきました。

新卒という肩書きに甘んじない。会社の未来を照らす覚悟の眼差し

article image 4
▲2019年現在の川島。SUN社員(サンシャイン)と呼ばれている

島と地域の活動を続けながら、川島には将来絶対に働きたいと思っていた旅行会社がありました。彼女自身のテーマであった地域のプロモーションやイベントを企画したり、まさに自分にぴったりな職場だと感じていましたが……。

川島「ウキウキしながら説明会にいったとき、周りにいた社員の人たちがなんだか疲れている表情をしていたのを見てしまったんですよね。私のテンションと全然違った。それを見て、ここは私が行っても想いやテンションが違うのかも? と思ってしまったんです。

ずっと志してたので、なんだか悲しくなっちゃって。大学のキャリアセンターに泣きながら電話して、辞退しますって伝えました」

自分を騙してまで入社することはできない。それはまさに「0か100か」という考え方をするようになっていた川島らしい決断でした。

それからも、複数の会社を同時に受けるといったことはせずに、興味を持った会社だけに絞り、自分が本当にここで「頑張りたい」と思える会社に出会うまで探し続けようと決めました。

ついに卒業まであと3週間と迫っていたある日――ついにPR Tableと出会います。

川島「出会ってすぐ『あ、ここだ!』って感じて。直感で決めました(笑)。これまでやってきた島の活動とか、写真展の企画は、ただ私の熱い想いだけで周りの人を巻き込んでた。でも、本当に何かを還元出来たのだろうか、自己満足だったんじゃないかっていう疑問を、実はずっと持っていたんですよね。

そんな時に出会った、PR Tableは企業のストーリーや想いなど、表面的なことだけじゃなくて、その背景までしっかり伝えていると思ったんです。しかもそれがビジネスとして成り立っている。それって私のやりたかった想いがかたちになってるじゃん!って。一瞬で惹かれましたね」

その後、大学を卒業してすぐにインターンとして入社した川島。しかし、しばらくは自分の強みを発揮できず、成果を出せずに苦しい時期が半年ほど続きます。

川島「何の成果も出せない時期が続いてました。でも、自分で覚悟して入社を決めた会社だったから、その気持ちだけでなんとか続けていましたね。

そして、新しいインターン生が入ってきたんです。少し先輩になる自分が教える立場になったとき、何かが“パーン”とはじけた感覚があったんです。その日を境にブレイクスルーしました」

それから見違えるような成長を見せた川島は、SNS運用の仕事からマーケティングの領域へと業務の幅を広げると同時に、 PR Tableの新卒第一号として正式に入社を果たします。

川島「私自身、あまり"新卒待遇"にはこだわりはないですし、そこに甘んじないようにしています。今は目の前のことに全力で取り組んでひとつずつ課題をクリアしていきながら、早くPR Tableで『やりきった!』と思えるようになりたいんです」

周囲から見られたときに、いち社員として常に恥ずかしくない自分でいたいと語る川島の目には、自ら決断した覚悟の眼差しが宿っています。

持ち前の明るさと強い当事者意識を胸に、これからも会社の未来を明るく照らしてくれることでしょう。