車いすバスケとの出会い——世界を股にかけるスター選手の誕生

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▲愛知県の2チームで活動中の大島美香。男子車いすバスケチーム「ワールドBBC」では、唯一の女性メンバー

大島は、「会社員」と「アスリート」というふたつの顔を持っています。コメ兵の「商品センター」で管財や庶務を担当しつつ、車いすバスケの日本代表として活躍するトップアスリートです。

「車いすバスケ」の競技人口は、日本国内で約700人※。激しく、スピード感あふれるプレーが、近年注目を集めています。※日本車いすバスケットボール連盟(JWBF) 2015年発表より

大島 「バスケットは幸せになるために、必要な手段のひとつなんです」

大島は生まれつき、脊椎の形成不全で神経障害が生じる「二分脊椎」による下半身麻痺をかかえ、車いすで生活していました。幼いころから知らず知らずのうちに、バスケットボールへの憧れがありました。小学校の卒業文集には『車いすバスケの代表選手になる』と書いたほど。

大島が「車いすバスケ」と出会ったのは、14歳のころ。もともとバスケットボールが大好きだった大島に、リハビリの先生が地元大阪の車いすバスケクラブを紹介してくれたのです。

大学進学後、本格的に選手生活を開始した大島は、1994年に女子車いすバスケの日本代表選手となりました。

何ごとにも妥協せず努力をしてきた大島は、日本代表として4度のパラリンピックと、4度の世界選手権で活躍しました。

日本連盟の規定変更があり、女子選手のスキルアップのため、男子チームへの登録が可能になったことから、2017年ごろには男子車いすバスケチーム「ワールドBBC」にも所属を開始。ローポインターの数が少なかったことや、自身のスキルをさらに向上させたいという想いがきっかけとなりました。

大島 「女子チームでは、自分でゲームをつくる力を養うことができました。男子チームでは所属することで、その圧倒的なパワーやスピードの違いにまず驚きましたね。男女両方のチームに身を置いてみて、それぞれのチームで活動することは私自身を高めるためのメリットがありました」

一方、コメ兵は 2009年に改正障害者雇用促進法が施行されたことを背景に、積極的な障がい者雇用を推進してきました。中でも、日本の障がい者スポーツ選手は企業へ雇用されることが少なかったため、「雇用」というかたちで障がい者スポーツに取り組むアスリートやチームを支援できないか検討していました。

そこで注目したのは、コメ兵の本社がある愛知県名古屋市を拠点に活躍している車いすバスケチーム。大島が所属する「Brilliant cats」「ワールドBBC」でした。

仕事もバスケも「チーム一丸」——周囲のサポートが両立を可能に

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▲商品センターの総務部は大島(写真右)含めふたりで担当。手の届く範囲に普段使う書類や備品を移動したり、車椅子が通りやすい動線を確保したりしながら勤務環境を整えている

こうして大島は、2012年コメ兵で初めて車いすを利用する社員として入社しました。大島の場合、企業に属しながらアスリートに専念する「アスリート雇用」ではなく、仕事とスポーツ選手のどちらにも取り組む社員として働き始めます。

大島 「仕事とバスケット、どちらも『チーム一丸』となるもの。仕事からプレーに、プレーから仕事に生かせることがたくさんあるんです。このふたつを両立させることで、もっと自分を高められると思いました」

時を同じくして2012年、コメ兵は組織の見直しを機に、商品化工程・物流の効率化を目的として「商品センター」を設立。建物を新設する際、大島に必要な設備をヒアリングしトイレや廊下、エレベーターにおいて十分な広さを確保できるよう、整備を進めました。

会社には、大島のおかげで障がいを持つ方がどのようなことに不便を感じるのか、知識や経験が蓄積していきましたね。そうして、誰もが働きやすい環境を考え、「商品センター」は完成しました。

入社以来、大島は、「商品センター」内の総務部で管財や庶務を担当しています。

大島 「私が受け持つ管材や庶務は、従業員が働きやすい環境を提供するための大切な存在。私が仕事において大事にしている点は、コメ兵のみんなが『この会社に来てよかった』、『安心して働ける』と感じてもらえるようにすることです」

メンバーの協調性を大切に業務に取り組む大島。総務部の上司小川潤は、自分の意見をもちながらメンバーの声にもしっかり耳を傾ける大島の姿勢をみて、実際に『安心して働ける』と言います。バスケットで培われたチームプレーは、確実に仕事にも生かされていました。
充実した環境下で仕事を続ける大島ですが、仕事とアスリートを両立する上で、苦労はないのでしょうか?

大島 「働く中で、そのとき対応しなければならないことや納期のある業務など、どうしても対応できないことが生じてしまいます。合宿や遠征などで、日を開けてしまうことが多々あるためです」

そこで、同僚は「選手活動を最優先に」と考え、大島がアスリートとしての時間に集中できるよう、勤務時間や出勤シフトを調整し最大限サポートしています。その結果、コメ兵入社以前と比べて大島個人の練習時間が多く取れるようになり、業務も滞りなく進んでいます。

大島 「自分が対応できないときに、同じ部署の下脇さんや隣のフロアの方々が対応してくれます。

また、トレーニングに行くときはいつも『頑張ってきてください!』と励ましの言葉もかけてくれるので、快くトレーニングに向かえることが嬉しいです。そのたびに感謝の気持ちが高まり、『結果を残さなくては』と思うのです」

出産を乗り越え新たなステージへ。プレーも働き方も「変化に合わせる」

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▲大島の試合には欠かさずかけつけてくれる息子さん

仕事とアスリート、2足のわらじを履く大島は、約30年の選手生活の中で1度だけ現役を引退した経験があります。2014年に男の子を出産したからです。

大島 「育児に励み選手を引退している間、国体の愛知県選抜チームのヘッドコーチなどさまざまなチームのスタッフを経験しました。『支える側』の苦労も改めて知ることができたんです。チームスタッフの気遣いって本当にすごい!選手でいる方がすごく気楽だ、と感じたほどです」

新たな視点でバスケを見つめ直したことや、日本代表がパラリンピック出場を逃している状況をみて、大島には「もう一度戦ってみたい」というバスケへの想いがふつふつと湧いてきました。

2015年に選手として現役に復帰し、2年間の育休期間のち2016年には職場復帰。数年のブランクや出産による体の変化などで苦労しましたが、強化指定選手として、全日本の合宿に参加し、国際大会への出場を果たすことができました。

大島 「育児については、家族にも周りの方々にも大変多くの支援をいただきました。出産してこんなにも早くバスケの練習ができたのも、たくさんの人に助けてもらったおかげなんです」

復帰後はプレースタイルも変わりました。それまでは、ポイントゲッターとなったり、パスを回しゲームをコントロールするプレーなど、チームの中心としてボールに絡むことが多かった大島。
しかし現在の自分の状況に合わせ、ボールを長い時間持ったりボールと絡むだけでなく、オフザボールの動きによって、チームのチャンスメイクに貢献するスタイルにも挑戦したのです。自分の置かれた状況を冷静に捉え、柔軟に変化していく。大島の強さと成長の秘訣がそこにあります。

大島 「何ごとも諦めず、工夫次第だと思っています。周りの人から見ると、私には生まれ持ったハンディを抱えているように思われますが、年齢の変化など誰にでも同じように起こりうる変化ってあると思うんです。

そうした変化が起こったとしても、先を見越して、工夫し続けることですね。──とはいっても、私、しょげてばっかりですが(笑)」

男の子は、現在6歳となりました。たびたび練習場に顔を出しています。バスケットに取り組む母の姿を見て「今日も頑張ったね」と笑顔で話します。

パラリンピックのその先を見据えて——今できることを全力で

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▲大会での活躍はもちろん、車いすバスケをより身近に感じてもらうため、車いすバスケ体験会・講演会など幅広く活動している

大島は、現在5度目のパラリンピック出場に向け、練習に励んでいます。従来であれば、開催間近であった大会は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため延期に。世界的な不安の中、どのように過ごしているのでしょうか。

大島 「正直、延期と決まった瞬間は、またあの苦しい経験を1年もしていかなくてはならないのか、とすぐには気持ちの整理がつかなくて……。

しかし、個人的には、パラリンピックだけがゴールではないと思っているんです。応援してくださった方に「あの選手は頑張っていた!だから自分たちも頑張る!」と思ってもらいたい。

──パラリンピックのその先の未来をより良いものにするために、今自分がすべきことに注力することが使命だと考えています」

そう考えると、またモチベーションをあげていくことができる。初志を貫き、『パラリンピックでメダル獲得を目指す』という目標に対し、ぶれずに取り組めるようになったのです。大島は来る日のために、今日できる範囲のトレーニングを工夫し、状況に応じて変化できるように励んでいます。

年齢を重ね、選手枠の競争が激化してくる中で、今後も大きな壁にぶつかるかもしれません。しかし、大島は、これからも環境や周囲の人々に感謝し、一つひとつ工夫をしながらその壁を乗り越えていきます。