自分の書いたコピーをテレビや新聞で見るのが嬉しかったコピーライター時代

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▲初めて書いた新聞広告のコピー、東京コピーライターズクラブ新人賞を受賞

高校生のころからコピーライターに憧れていて、大学のゼミも「広告理論研究ゼミ」。新卒で広告会社に入社して1年間のマーケティング局研修を終え、ついにコピーライターの名刺を手に入れました。

コピーを書きつづける仕事は、覚悟はしていたものの、文字通り身を切るような仕事です。「鶴の恩返し」という話をご存知でしょうか?鶴が自分の羽を1枚、また1枚と抜き取って機織り機で反物を織る民話です。鶴の姿に自分を重ねて「インプットしないと、近い将来、羽根がなくなってしまう」と思ったことを覚えています。

それでも自分の書いたコピーがテレビで流れ、駅のホームに貼られて、バスの中では子どもがCMソングを歌っている。

そんな「ご褒美」に出会うと羽を抜く痛みも忘れ、また機織り機に向かって反物を織り始める──そんな毎日の繰り返しでした。

先輩にも恵まれていたと思います。ある日、メンターである先輩に「明日までに100案書いてきて」と言われ、徹夜で書いた100案のコピーを先輩に見せました。すると私の書いた100案を丁寧に読み終わった先輩が「頑張ったな。で、これがオレの書いた100案」とコピーの束をデスクの上に置きました。私が書いている間に、先輩自身も徹夜して100案コピーを書いていたのです。「てにをは」違いで、無理やり数だけ増やした私の100案に比べ、先輩のコピーは、切り口や語り口がそれぞれ違う、考え抜かれたものでした。

コピーライターの仕事は、テレビや新聞のコピーを書くことだけではありません。

人々の頭の中にあって、喉まで出かかっているけれど、モヤモヤしていて言葉にできない。そんな抽象概念を言語化することもコピーライターの仕事。

経営者へのインタビューやワークショップで集めたたくさんの「想い」を、ブランドコンセプトや企業のビジョン、企業スローガンなどの「言葉」へ昇華するスキルが、コピーライター時代に鍛えられました。

まったく違う2つの肩書を掲げ、フェアに取り組む仕事への想い

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35歳の時、クリエイティブディレクターに昇進しました。自ら手を動かしてコピーを書くことに未練のあった私は、名刺の肩書きを「クリエイティブディレクター/コピーライター」としてもらい、2つの職種を兼任することに。

クリエイティブディレクターとコピーライターの役割は、まったく違います。

スポーツの世界で言う監督と選手のようなものでしょうか。

「名選手が、必ずしも名監督になるとは限らない」とはよく言われることですが、クリエイティブディレクターとコピーライターの間にも、まったく同じことが言えそうです。

広告制作は、クリエイティブディレクターを中心に、コピーライター、アートディレクター、デザイナー、CFプランナーのチームで進められます。社外の演出家、カメラマン、照明、美術やエディター。加えて出演者、ヘアメイク、スタイリストなどを含めると時には100人近いチームになることも。クリエイティブディレクターは、このチームを率いてクライアントのフロントに立つ責任者です。

コピーライター出身のクリエイティブディレクターの他にも、当然、アートディレクター出身やCFプランナー出身のクリエイティブディレクターがいます。それぞれ自分の得意分野だけでなく、不慣れな分野も含めて全体の統括をしなくてはなりません。コピーライター出身だからと言って「デザインのことは、わからない」では済まないのです。

自分のチームにスタッフとして、コピーライターを入れるときは、自分ではコピーを書かないようにしていました。スタッフのコピーライターにたくさんコピーを書かせておいて、自分が書いたコピーを採用するのはフェアでないと感じていたからです。

自分でコピーを書きたい私は、コピーライターをスタッフに入れないか、他のクリエイティブディレクターの下で、コピーライターとして働くことを好んでいました。

コピーライティングを封じることで見えたクリエイティブディレクターとしての歩み方

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▲中国でのCM撮影風景、コロナ前のマッチングアプリ全盛期のCM

最初のころは、あまり気乗りのしなかったクリエイティブディレクターですが、経験を積むうちに、だんだんとやりがい、と言うよりおもしろさを感じるようになります。

「自分の書いたコピーをテレビで見る」から「自分がディレクションした広告をテレビで見る」ことに達成感のクライテリアが移って行ったのです。

アートディレクターの経験がない私は、自分ではデザインができません。カメラマンのような写真も撮れません。そもそも100人近いスタッフのそれぞれのスキルを1人で身につけることなど、できるはずもありません。それでも「つくりたいビジョン」があって、そこに向かって多くのスタッフをディレクション(方向づけ)していく技術が求められます。クライアントに対して、それが「つくるべきビジョン」であることを説得する技術を本気で磨きたいという気持ちになっていきました。

それでも頭のどこかで、ついコピーを考えてしまうのです。隙さえあれば、いつの間にかコピーを考えていました。コピーライティングが染み付いた頭が、なかなかコピーから離れません。そんなある日、クリエイティブディレクターに徹する方法を思いついてしまったのです。

「海外赴任する」──そうすれば、いやがおうでもクリエイティブディレクターに徹せざるを得なくなる、と。

アートディレクターやカメラマンであれば、海外でも同じスキルが通用します。けれどもコピーライターのスキルは、海外では役にたちません。

そんなふうに自己都合で海外赴任を申し出た私に、当時の会社は言いました。「言っているだけでなく、その本気度をカタチにして示せ」 。

私は、韓国語の勉強を始めました(何語でも良かったのですが)。韓国語でコピーを書くためではありません(書けるわけがありません)。本気度をカタチで表すためです。真面目に勉強したおかげで韓国語検定3級試験に合格し、私の熱意を認めてくれた会社は、海外赴任を命じてくれたのです。

そして、いざ中国へ。

日本を出て挑戦した先で掴んだエクスペリエンス・クリエイティブディレクター

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▲クリエイティブディレクターの一日

北京でのクリエイティブディレクター生活は、わずか2年で終わってしまいました。赴任中、発生したコロナで、北京支店が縮小してしまったのです。  中国でクリエイティブディレクションに徹していた私は、帰国後も今以上に自分のクリエイティブディレクション技術を高め、拡張する方法を模索していました。さまざまなメディアのコンテンツ制作を経験してきたとはいえ、私の経験はプロモーション領域に限られていました。そんな時、コンサルティング会社の中にも、クリエイティブ部門があることを知ったのです。

広告やPRではないクリエイティブディレクションとは何だろうと興味を惹かれました。

2カ月後、イグニション・ポイントのエクスピリエンスデザインユニットに入社したものの、最初はコンサルタントの話す言葉がほとんどわかりませんでした。日本語なのに。けれども言葉のわからない中国でクリエイティブディレクションを行っていた私は、どうすればいいかを知っていました。答えは簡単、勉強すればいいのです。中国語に比べれば、カタカナや英語など簡単なはず。

そこで1年間で100冊以上の本を読みました。幸い近くに図書館があり、必要な本をすべて無料で読むことができました。

コンサル用語のリスニングができるようになった今、広告会社時代から行っていたブランディング領域の仕事に加え、新規事業や新規サービスのクリエイティブディレクションに携わっています。プロモーションコンテンツから、顧客体験へとディレクション領域が大きく広がりました。

クリエイティブは、創造です。今、ここにないモノ。まだ、ここにないコトをつくり出すことは、すべて創造です。創造するところには、クリエイティブディレクションの仕事が発生します。

イグニション・ポイントのエクスペリエンスデザインユニットでは、今日も、たくさんのクリエイティブディレクションが行われています。そこに携われることに喜びとやりがいを感じながら、これからも進み続けていきたいと思います。

※ 記載内容は2023年8月時点のものです