父を見返すためにひたすらぶつかったアイスホッケー

▲小学校3年生。大会での優勝カップと共に

幼少期はとにかく遊ぶのが好きで、遊んでくれる人なら誰にでもついて行ってしまう子だったと親によく言われていました。

そんな私は幼稚園のときにアイスホッケーを始めましたが、きっかけは父が生まれ変わったらやりたかったので息子にやらせたいと思ったことと、初めてアイスホッケーの試合を見たときに人と人とが激しくぶつかり合う姿を見て自分もやってみたいと思ったからです。

高校で親元を離れるまでは父に教えてもらっていたのですが、父は「1番以外はビリと同じ」という言葉が口癖で、小学校高学年のときには「辞めたい」としょっちゅう思うようになりました。しかし、ここで辞めたら一生父を見返せないと思うと辞める選択もできませんでした。

中学時代は私にとって分岐点ともよべる決断がありました。それは高校選びです。

中学1年生のころは地元の高校に進学しようと思っていたのですが、このままでは変化がないと思い、中学2年生のときに県外の強豪校に行くことを考えました。しかしインターハイでその学校が北海道の高校に負けたのを目の当たりにしてここに進学しても日本一になることはできないと思い、北海道の高校に行きたいと思うようになりました。

両親は北海道と神奈川で物理的距離が遠いことや、何も知らない土地でひとりで暮らすということもあり大反対でした。当時の私はそれらの本当のつらさをわかっておらず、ただ強い高校でプレーしたいという気持ちしかありませんでした。

その結果、両親とは何度もぶつかり、すれ違いました。中学3年生の夏に父から「家を出るならひとりの大人。自分の行動、言動に責任を持て。もうお前を守ってくれる人間はいない」と北海道に行くことを許可してくれました。当時は冷たい言葉に感じましたが今となっては中学の私を大人として見て、大人の対応をしてくれたのだと感謝しています。

追い込まれても諦めない──自分を支えた先輩の言葉

▲高校時代。U18の代表合宿の際の紅白戦。白ユニフォームが吉岡

高校では日本一になりたいという目標があったので北海道の高校に進学し、親元を離れて下宿に入りました。

何もわからない土地で生活するということを当時の自分はまったく理解していませんでした。とくに神奈川の人間が北海道の高校に進学したということで学校、部活でもなかなか輪に入ることができませんでした。

ことあるごとに都会っ子、東京人、と区別されました。つらいことでしたが周りには相談できる人はいないし、親にも反対を押し切って進学させてもらったので弱音を吐くこともできず、いつも噓の報告をしていました。なので、1年目は人生で1番といっても過言ではないくらいにつらい日々となりました。

そんなときに先輩から、「今諦めたら楽になるが何も残らない、今諦めなければ成功するかはわからないが必ず何かが残る。あとはお前がどっちを選ぶかだ」という言葉をかけられ、続ける決心をしました。

2年目からは試合にも安定して出られるようになり、技術的にうまくなくても人がやりたがらないことに体を張り続けることで徐々に信頼されるようになりました。3年目には自分の色を出したプレーも許されるようになりました。

また、生活面では、同じ下宿に入った5人の後輩に、少しでも心の支えになればと、夜ご飯を上級生がつくり、一緒に食べるようになりました。その結果、私の学年では4人の下宿生が辞めたのに対し、後輩はひとりも辞めることはありませんでした。

高校生活はとても大変でしたが、やり遂げることの大切さ、ゼロからの信頼のつくり方、後輩たちとのコミュニケーションを学びました。なので、人間形成の礎のような3年間になりました。

部活動で学んだ役割と社会人にも通じる姿勢

▲大学時代。関東大学アイスホッケーリーグ戦

大学生活で一番印象に残っていることは部活動です。

大学4年間は体育寮に入っていました。アイスホッケー部としての寮生活のコンセプトは、寮生活を通し社会常識を身につけることでした。4人部屋だったのですが、1年生は朝8時に部屋の掃除、先輩を起こす、などの主に雑用仕事がありました。

2年生は1年生の指導とフォロー、3年生は中間のパイプ、4年生はチームのまとめ、チーム運営、スケジュール調整、学校との連携、などの仕事がありました。

その中で学年、立場ごとの役割があること、嫌だと思っていた1年生のころは雑用ばかりで責任がともなうことは上級生がやってくれていたこと、それに対する対価として1年生は部屋の掃除などを上級生に提供するというしくみを学びました。引退するときには監督からここは社会の縮図であると教えていただきました。

高校では縁の下の力持ちに徹していましたが、意識して大学を選んだこともあり、大学では1年生のときから自分の色を出していきました。

1年生から自分の色を出せることに初めのうちは喜びを感じていたのですが、うまくいかないと立ち戻るベースがないことに壁を感じました。高校は自分の色を出すことはできませんでしたが、適材適所にチームとしてのマニュアルがあったので困ることはありませんでした。

しかし、大学では個人としての意識が強かったので、うまくいかないとなかなかその状況に対するマニュアルは自分自身で見つけるしかないのでとても苦労しました。そこで、高校生のときにいやいやながらもマニュアルに沿ったことをやり続けたことが大学で行き詰ったときのヒントになりました。

そこから学んだことは、まずは言われたことを1~10まで完璧にこなせるように全力を尽くすこと。そうすることで自分のベースができました。その上で、自由な発想を持ちアレンジしていくことでやっと自分のプレースタイルができること、自分のプレースタイルが確立されるまでに20年もかかることを身をもって学びました。

また、監督は私たちのことを「会社の部下だと思っている」と、よく言っていたのですが、高校の先生とは違い1~10までを教えてはくれずある程度は考えさせる、自由にともなう責任の所在を教えてくださりました。

引退の際には、社会人になってから5年は常に1年生のころの気持ちを忘れなければ、自然と自分のやるべきことが見えてくると教えていただきました。

人生の転機。アイスホッケーではない道

▲2020年現在の吉岡

いつか父に認めてもらいたいという想いを持って、アイスホッケーを幼稚園から大学4年までの22年間続けてきました。

学生スポーツとしてのアイスホッケーを引退後は結果、過程ともに満足している自分と、辞める理由もないし、今辞めたらもったいないのではないかという気持ちで続けるか迷っていました。

そんな私に決心させるきっかけをくれたのは、父の「人生アイスホッケーだけがすべてではない、アイスホッケーは極めたのだから他にもいろいろなことをやって人生を楽しめ」という言葉でした。そして、アイスホッケーは引退とともに辞めることにしました。そこで、アイスホッケーではない道として就職の道を考え始めました。

会社を選ぶきっかけになったのは、ゴルフに関する仕事に携わりたいという想いです。2019年、大学4年生のときに、父にいやいや連れて行かれたゴルフだったのですが、今ではゴルフのない生活は考えられないほどです。仕事を選ぶ上で好きなことに携われることほど幸せなことはないと先輩から言われていました。

なので、ゴルフに携わる仕事ができたらいいなと思い、ゴルフ場システムのある富士テレコムを選びました。また、人事部長の方が同じ大学で、面接やOB訪問の際に大変良くしてもらい、そういったところに縦のつながりと縁を感じ、この人の下で働きたいと感じたのもきっかけのひとつです。

現在は研修中で、全部署を周り業務を学んだり、在宅でIT知識やビジネスマナーについて学んだりしています。今は仕事をする上での基礎をつくる段階であると思っているので、一日を大切に過ごしていきたいです。

今後の目標としては基礎をしっかりと学んだ上で、配属先の上司の方の言うことを1~10まで実践できるようにすること、スケジュール管理をしっかり行うこと、ミスをすることはあると思いますが、その後の行動に気を付けることが目標です。

また大きな声でハキハキと話す、しっかりとあいさつをするということは変えることなく今後も続けていきたいです。