誰もが幸せに暮らせる世界の実現へ──身近なところから変化を促すビジネスを求めVCに

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——西川さんはどのような経緯でヘルスケアの領域に関心を持つようになったのでしょうか。

西川 「両親の仕事の関係で、小学生のころにタイの地方に住んでいたことがありました。当時は停電や洪水は日常茶飯事だったのですが、私には、現地の人たちがそれを当たり前のものとして、その不便さを受け入れているように思えました。そこから持続可能な開発とはどのようなものなのか考えるようになりました。

また、現地のインターナショナルスクールに通い、多様な環境に身を置き、国際政治がそのまま友人関係に響く状況を目の当たりにしたことで、誰もが幸せに暮らせる世界についての構想も深めるようになりました。

帰国後、大学で国際関係や政治学を専攻し、途上国開発に貢献したいとの想いから総合商社に就職しました。まずは人々の生活の根幹となるインフラの整備に携わり始めようと、海外の発電所の建設や運営事業に関わり、投資や審査を担当しました。

商社の仕事は規模が大きく、やりがいがありました。ただ、与えるインパクトが大きい分だけ、国を巻き込み、ときには調整に数十年単位の時間がかかるという特徴もありました。人々の生活を支えるビジネスに関心があったことから、もう少しスピード感をもって人々のライフスタイルや考え方などに良い影響を与えられるような仕事がしたいと考えるようになりました。

そんな想いを抱いていた頃、ロンドン支社に駐在することになりました。コロナ禍の真っ只中で、ロックダウンを経験し、医療崩壊の現場にも直面。診察予約を取るのに1週間、検査を受けるのに1カ月、検査結果が出るまでにもう1カ月という状況に問題意識を覚え、ヘルスケア分野に強い関心を抱くようになりました。

DGDVからお誘いをいただいたのは、ちょうど駐在を終えて帰国したタイミングです。まさしくクイックに人々のライフスタイルに変革を促せるという点でスタートアップ投資に可能性を感じたことに加え、ヘルスケア分野の投資にぜひ取り組んでみたいと考えて、いまに至ります」

——商社からVCへと転身されて、スタートアップによって未来が変わりそうだといった実感を感じた例はありますか?

西川 「たとえば女性や男性特有の健康問題を解決する“フェムテック”や“メンテック”は人々のライフスタイルや意識変化を促した最たる例の一つなのではないかと思います。

生理や更年期など、これまでは口に出すこともタブー視されてきた面がありましたが、“フェムテック”という言葉が広まり始めたことを受けて、そんな状況が少しずつ変化していると感じます。また、“フェムテック”が女性の働きやすさの改善や社会進出に実際に役立っている場面もあり、スタートアップの台頭によって、ライフスタイルが大きく変わる可能性に日々期待を寄せています。

アメリカには、女性が妊娠できる年齢を延ばすことを目指している スタートアップもあります。技術や規制の点でもまだまだ発展途上な部分も多いですが、たとえば近い将来、結婚や妊娠の適齢期という考え方自体がなくなるきっかけになる可能性もあります」

単なる流行ではない、投資領域としてのデジタルヘルスと業界を取り巻く環境について

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——ヘルスケア業界の中でも注目を集めるデジタルヘルスとは、そもそもどのようなものを指すのですか?

西川 「デジタルヘルスとは、AIやIoT、VR、ビッグデータ解析などといった最新のデジタル技術を駆使して、医療の効果を向上させることを指します。たとえば、AIを活用した健康診断や手術支援をするロボットなど、複数の領域を掛け合わせるところに特徴があります」

——デジタルヘルス業界のトレンドについて教えてください。

西川 「2021年は、約600億ドルものグローバル投資が集まり、デジタルヘルススタートアップ業界にとって歴史的な年となりました。(※CBインサイト調べ)

従前、ヘルスケアは専門家が扱う閉じられた領域とみなされる傾向がありましたが、2021年頃からタイガーグローバルをはじめ、数々の著名な投資家が積極的に同領域への投資に参入し始めたことに加え、大手IT企業がヘルスケア事業を開始したこともあり、流れが変わり始めました。もちろん、新型コロナウイルスの影響によって人々の健康志向が高まったことも、デジタルヘルスが注目を集めるきっかけになったと思います。

他方で2022年は投資額をけん引した遠隔医療スタートアップの調達が一段落した結果、前年に比べると投資額が30%ほど減少し、2020年と同水準に落ち着く見込みです。

翻って、デジタルヘルス上場市場に目を向けると、2022年の株価下落が話題となりました。社会のインフラであるヘルスケア業界への投資額は小売やフィンテックなどの他業界と比べると経済状況に左右されることはないようにも思われます。

にもかかわらず、デジタルヘルス企業の株価が下落した大きな要因の一つとして、SPAC(特別買収目的会社)を介した上場を行ったデジタルヘルスの会社が多く占めていて、本来は上場企業として利益をマーケットから評価されるまだ手前の段階にいるはずの企業が、上場してしまっていることが指摘されています。(参考:Rockhealth capital insight)

実際に、SPACを介した上場を行ったデジタルヘルス企業は21年のQ3から22年Q1の半年にかけて-約57%と株価が大きく下がっているのに対し、伝統的IPOを行ったデジタルヘルス上場会社の下げ幅は平均約29%に留まっています。

SPAC(Special Purpose Acquisition Company)とは特別買収目的会社のことで、特定の事業を持たず、未公開会社等を買収することを目的として上場する会社です。上場後に適切な買収対象会社を見つけ、合併を行います。合併後は、事業を営む被買収会社が存続会社となり上場を継続するスキームです(JSRI定義)」

——SPACを介した上場を行った会社は、伝統的IPOを行う会社と何が異なるのでしょうか?

西川 「SPACを介した上場は、伝統的IPOの際の上場に伴うさまざまな手続きを経ることなく上場できるため、一般的には上場準備期間を短縮できるというメリットがあります。

アメリカの一部の記事では、伝統的IPOが過去のトラクションを重視する一方で、SPACを介した上場では今後の事業計画に焦点が当たりやすいことからも、伝統的IPOを行う会社と比べて平均3年ほど若い成長段階の会社がSPACの買収ターゲットとなることが多いと言われています。(出典:Crunchbase記事

したがって、見方を変えれば、ほかの会社よりも早い段階で厳しい経済競争環境の中に放り込まれるということになるため、特に今のような不安定な経済状況においては、上場後に思うような成長を遂げ続けられない場合、投資家からの評価を得ることが困難な状態になり、株価下落に帰結してしまいます。

また、SPACを介した上場を行う場合、上場価格が伝統的IPOを実施するよりもバリュエーションも一時的に高くなる傾向があると言われています。(CB insight調べ)

ただ、上場時には流動性が低い状態で見かけの株価が高くついても、株式がより流動化する上場半年後ないしは1年後には伝統的IPOをした場合と同水準の適正評価に落ち着く傾向にあります」

——そうした状況を踏まえ、デジタルヘルスを含めた今後のヘルスケア市場についてどう考えていますか?

西川 「足許の市況を見ると依然として厳しい側面もある一方、中長期で考えると、今後もデジタルヘルスケア市場自体は成長市場であり続けると考えています。コロナ禍を経て、世界の人々の健康への意識が高まっています。

また、高齢化とともに病気になる人の数が増え、年々伸び続ける医療費の削減が各国政府の最重要課題となりつつあります。伝統的なヘルスケアを改革していくためには、デジタルヘルスの力がこれからも重要だと考えています。投資家としては、各スタートアップの上場までの道筋はもちろん、その後の長期での成長まで長い目で市場動向を把握した上で、向き合っていく姿勢が大切なのではないでしょうか」

技術の進歩が潜在的な需要の喚起に貢献──デジタルヘルスの進化

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——ヘルスケアの領域の中でも、西川さんが特に注目している分野はありますか?

西川 「やはり“フェムテック”と“メンテック”がここ数年で特に伸びていると感じます。これまでは一口に“フェムテック”といっても、生理用品をBtoCで売ったり、赤ちゃんのお世話や健診のログをつけたりするなど簡易なものが先行していましたが、ここ1年くらいで、まさに本命といえるような健康を支えるサービスが生まれ始めています。

たとえば、DGDVでは、7人にひとりの女性が患っているといわれるPCOS(多嚢胞性卵巣症候群)の治療に取り組むアメリカのアストリッドヘルス(サービス名:Allara Health)という企業に投資しています。PCOSは、肥満や多毛、肌荒れなどの症状を伴いますが、体質などと混同されがちで、発症してもほとんどの人に病気の自覚がなく、平均診断までに2年要するのが特徴です。PCOSを患っている患者の半分は不妊になるなど、さまざまな疾患との相関性が確認され始めており、早期発見・治療が期待されています。

“メンテック”に関しては、男性の不妊治療をサポートするインドのサフロンテクノロジー(サービス名:Kindly)という企業にも投資しています。これまで男性はクリニックに行かないと治療を受けられませんでしたが、Kindlyは自宅にいながら精子を採取して検査できるサービスを提供しています。

こうした需要はこれまでもありましたが、特にアジア圏では文化的な背景もあり、公にすべきことではないと考えられてきたため、なかなか表面化してきませんでした。技術の進歩によってそうした潜在的な需要をうまく拾いあげられるテックが出てきたことにより、一気に広がってきたものと理解しています」

——ほかにも気になる分野があれば教えてください。

西川 「テクノロジーを活用して精神疾患を改善する“メンタルヘルステック”にも注目しています。不妊やPCOSといったホルモン系の病気はメンタルの問題と切り離すことができませんし、“フェムテック”や“メンテック”のもとをたどれば、メンタルに行き着くことが少なくありません。

たとえば、心理的、時間的になかなかクリニックに足を運びにくいという患者側の需要に応えるために、オンラインでカウンセラーとつないで遠隔でカウンセリングを行ったり、スマートフォンやウェアラブルデバイスから取得したデータを診断の材料にしたりといったことが可能となっており、DGDVでもそのような技術に投資しています。AIロボットを使った精神療法なども既に始まっていますね」

——特に国内で注目すべき市場はありますか?

西川 「高齢者の割合が非常に高い日本で需要が期待されるのは、高齢者を支えるテック、“エイジテック”です。見守りセンサーにはじまり、介護者と被介護者とのマッチングサービスまで、カバーする範囲が広いものです。足許では腰痛を遠隔で治すプラットフォームといったものも出てきています。

“エイジテック”に関して課題となっているのが、ユーザーである高齢者にどうアピールしていくかという点です。需要に応えるサービスを生み出すだけでなく、たとえば介護福祉用具を扱う専門医や介護施設と連携するなど、従来とは違うマーケティング手法も必要になると思います。

デジタルヘルス関しては現在アメリカが先頭を走っていますが、こうしたマーケティングの工夫等も含め、日本国内からの新たなサービスの誕生が待たれるところですね」

「人を幸せにする」ことがヘルスケアの社会的意義。その実現に向け、心がけたいこと

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——海外と日本のヘルスケア市場には違いがあるものでしょうか?

西川 「アメリカや一部のヨーロッパ諸国では、医療費が高騰していて、診察を受けられない人や、診察費を払えず自己破産する人が後を絶ちません。一方、医療費の個人負担が比較的少ない日本では、具合が悪くなれば病院で診てもらって薬をもらえばいいという感覚を誰もがもっており、両者のあいだには、病気の予防への意識や、かけるお金に大きな差があります。

たとえば、アメリカでは最近、ヘルスケアのプロダクトを直接ユーザーに届けようとするBtoCの動きが出てきましたが、このモデルが普及しているのは医療費が高額なアメリカだからこそだと思いますし、このようにアメリカやヨーロッパにはヘルスケア分野のスタートアップが生まれやすい土壌があると言えるでしょう。

他方で、BtoCのビジネスモデルにはマーケティングが欠かせません。さらに広くユーザーを抱え込んでいく戦略として、いったんtoCでカスタマーに落とし、そこで収集したデータを保険会社に販売したり、大企業の福利厚生に取り入れたりするBtoCtoBの業態も増えてきています。こういった業態であれば日本にも受け入れやすいモデルなのではないかと思います」

——ほかに特筆するべき動きはありますか?

西川 「これまでは、たとえば、うつ病専門、ダイエット専門という具合に、スタートアップ自体が棲み分けをしていました。ところが、足許うつ病もダイエットも手がけながら、BtoCによる医薬品の販売まで行うスタートアップも生まれています。ワンストップであらゆるデジタルヘルスが賄える、いわば総合病院化といった流れが起きていて、この流れはいずれ日本にも波及することになるでしょう。

ただし、ヘルスケアは規制産業ですから、アメリカのモデルをそのまま日本国内で展開することは不可能です。加えて、アメリカ人と日本人とでは体型も体質も違います。人種ごとのデータの差異が課題となり、これまで他国で先行して蓄積してきたデータを日本でそのまま活用しづらいという現状もあります。裏を返せば海外の企業にとって参入障壁が大きい分野だけに、日本の企業にこそ頑張ってほしいですね」

——これからヘルスケア分野に注力しようとする日本の企業には、どんなことを伝えたいですか?

西川 「ヘルスケア企業には、“人を幸せにする”、“困っている人を助ける”といった大きなコンセプトがあり、それぞれに社会的意義があります。それ自体は素晴らしいことでありつつ、ただそのために、マネタイズが後回しになっているケースや、テックの開発を急ぐあまり、ユーザーである患者・医師の声を拾い切れてないケースが少なくありません。

ヘルスケアに限ったことではありませんが、マネタイズの仕組みを確立すること、現場の声を聞いてペインポイントを明確にすることを早い段階から心がけていただきたいと思います」

——ヘルスケア分野に関わるVCとして大切にしていること、今後の展望を聞かせてください。

西川 「ヘルスケアは長期的なビジネスです。VCとして、スタートアップの経営者の方には、いまやりたいこと、将来的に達成したいことのふたつを聞くようにしています。

たとえば、『いまはピルの相談・診断・処方をオンラインで展開しているけれど、いずれは女性の人生すべてを支えるようなサービスを提供したい』という具合に、短期長期の複数軸がなければ成り立たないビジネスであると考えているからです。

マネジメントの想いの強さはもちろんのこと、それを夢物語で終わらせないためにも、実現・成功の確度までつぶさに読み取ることが大切だと考えていますし、そこを一緒にブラッシュアップし、目標に向かっていくことがわれわれの務めだと自負しています」