あなたのような人を待っていた──当時は珍しかった制作現場の女性社員

▲スタジオにて

樋笠が朝日放送に入社したのは、2001年のこと。樋笠は新卒入社の1年目女性社員としては初めてテレビ制作部にスタッフとして配属されました。

樋笠 「その当時、1年目で、女性社員が制作スタッフに配属されるのは、珍しかったみたいです。制作現場はほとんどが男性社員で、デスクワークを担当する数人の女性と、現場の先輩女性がたった1人いるだけ。ちょうど女性向けの新番組が始まったタイミングだったので、女性スタッフがほしいという声があり配属になったようです」

時代的にも、女性社員が極めて少なかったテレビ番組制作の現場。特殊な環境の中、樋笠はADとして日々の仕事に取り組みます。何年かすると女性の後輩も入ってきましたが、仕事のハードさから、ディレクターを目指す女性はなかなか育ちませんでした。

樋笠 「制作の現場にはもっと女性がいるべきだ、といつも思っていました。新入社員の中で制作志望の子を探し出しては上司に伝えていましたね」

制作現場を変えていこうと熱心に働きかけた樋笠。ですが実は彼女自身、元々は制作志望ではありませんでした。入社当時の志望動機は「報道に携わりたい」というもの。制作に配属されてからしばらくは、その思いを消せませんでした。

樋笠 「優秀で面白い先輩や後輩がたくさんいる恵まれた環境だったので、制作の仕事は楽しかったですが、なかなか上手くいかないことが多かったですね。入社から10年近くを制作現場で過ごし、ある程度ディレクターとして役に立てるようになった頃くらいから、制作で頑張ろうと思えるようになったんです」

そのきっかけになった番組は深夜枠で放送されていた『ビーバップ!ハイヒール』。女性漫才師ハイヒールのリンゴさん・モモコさんが司会の番組で、樋笠は番組初の女性ディレクターに抜擢されました。

樋笠 「女性司会者の番組なのにスタッフが男性ばかりだったので、ハイヒールさんからは『あなたみたいなディレクターを待っていた』と言われました。やっと自分の存在意義を感じられましたね。婚活ネタなど女性が興味のあるテーマに視点を置き、ドラマ仕立てのコミカルなVTRを作ったのですが、それがとても好評だったのを覚えています。視聴率にも跳ね返ってきて。やりがいを感じましたね。

それでも自分がこの仕事に向いているとは思えませんでしたが、いろいろな人と一緒にお仕事をさせてもらううちに『この人たちのために将来も頑張りたい』と自然に思うようになっていました」

そんな樋笠に、一つの転機が訪れます。結婚して間もなく、夫が転勤で海外に行くことになったのです。ついていくために会社を辞めようか悩んでいた樋笠。とある人物に相談したところ、社内に海外研修制度があることを教えてもらったといいます。

研修先を自ら探し、日系アメリカ人向けの放送局を見つけた彼女は、会社にプレゼンして切符を手に入れ、ロサンゼルスのテレビ局に乗り込みます。入社13年目のことでした。

海外研修制度を使ってロサンゼルスへ。視野が広がった発見の日々

▲ロサンゼルスのロケ現場で(一番左)

海外研修制度を使って、ロサンゼルスのテレビ局でディレクター兼記者として働くことになった樋笠。ニュース番組の1コーナーを任され、現地の日本人アナウンサーと一緒に番組を作ったり、パレードの生放送に携わったりしました。

樋笠 「正直なところ、英語も満足に話せない状況で飛び込んだので大変でした。拙い英語で粘り強く会話をしてなんとか意思疎通をしていましたね。意外だったのは、小娘だった私の話をきちんと聞いてくれる土壌がロサンゼルスにあったこと。下手な英語でも堂々とやりたいことを伝えることが大切だとわかりました」

アメリカにいることで、現地のテレビ局と朝日放送のグループ会社のインターナショナル部門とつないで、『ナイトスクープ』の海外番組販売のサポートをしたこともありました。制作業務以外の仕事を経験したことは、大きな糧になったそうです。

樋笠 「全く違った環境で多くのことにトライできたので、自分の成長につながりました。ロサンゼルスに送り出してくれた会社の人たちに感謝しています」

1年後、帰国し制作部に戻った樋笠。自身の視野が広がっていたこともあり、ディレクターをやり続けることに違和感を覚えて異動希望を出しました。そして、企画戦略部に異動。ディレクターからプロデューサーへ転身したのです。

実は、異動希望を出した背景には、もう一つ別の理由もありました。

樋笠 「時間を作って、不妊治療に身を入れたかったのです。プロデューサーの方が、ディレクターより時間の融通がききます。私は当時35歳を過ぎていて、年齢的にも、子どもを産む準備に入りたいという気持ちが強くありました」

不妊治療は長期間にわたって根気強く治療を続ける忍耐が必要で、日々の中でも時間を作る必要があります。もしディレクターだったら、仕事をしながら治療を続けるのは時間的にも精神的にもしんどかったのではないかと樋笠は振り返ります。治療を経て、念願叶って第一子を妊娠した樋笠は、産休に入ります。

樋笠 「出産予定日がわかったとき、すぐに復帰についても考えました。保育園探しが大変だと聞いていたのでそれも始めました。基本的に、仕事が好きなんだと思います。子育てしながらでもフルタイムで働きたいと思っていました」

意味のある仕事を任せてもらうことが、後輩のためになる

▲楽屋裏で

産休を経て現場に復帰した樋笠。しかし復帰の数日後、彼女の耳に届いたのは異動の発表でした。この人事で樋笠は、制作部に戻ることになったのです。

樋笠 「正直、『やばいかもしれない』と思いました。でも一方で、私が子育てをしながら制作の現場にいることが、後輩のための新たな道を作るのではないのだろうかとも思えたんです。後輩のためになるのなら、わがまま言いながらもやる意味はあるかなと考えました」

こうして制作部で『アタック25』のプロデューサーとして仕事をしながら子育てとの両立を図り始めた樋笠。しかしその後すぐに2人目を妊娠したため、半年後に2度目の産休に入りました。

樋笠 「2度目の産休に入るまでの半年間は、雑務も進んで引き受けました。子どものために早く帰らなくてはいけないので、みんなに悪いと思って……。2度目に現場に戻ってくるときは時短もとらないと子育てが回らない状況でした。

でも、雑務ばかり引き受けたのでは意味がないと思い直しました。フルタイムではなく時短でも、自分の経験を活かした仕事を任せてもらうことが、後輩の道を作るためには重要なんだと気づいたからです」

2度目の復帰前に制作部の上司に相談し、『アタック25』のプロデューサーという仕事だけでなく、これまでの制作経験や海外研修経験を活かしたコンテンツ活用の仕事もするようになりました。

今の樋笠だからこそできる仕事にたどり着き、充実した日々を過ごすことができています。

樋笠 「産休・育休を取ることや時短をとることがキャリアダウンになってしまう会社なんて、夢がないじゃないですか。だから復帰してからは、限りある時間の中で意味のある仕事をすることにこだわりました。自分の事例が後輩の明るい未来のためになるようにといつも思っていましたね」

自分の子どもが「入りたい」と言うようなテレビ局にしていきたい

▲前を向いて進んでいく

若い人の活躍について、常に考えてきた樋笠。彼女はこれからのキャリアを使って、朝日放送が若い人たちの目により魅力的な会社として映るよう、内部から変えていきたいと思っています。

樋笠 「たとえば、物事を決める際の判断のスピードをもっとあげていきたいですね。目標は、自分の子どもが大きくなったときに『朝日放送に入りたい』と思うような会社になっていること。そのために、後輩たちが新しいことをやりたいといったときには、積極的にサポートしたいと思っています」

キャリアをここまで重ねてきた今、テレビ局の仕事に挑戦したい若い女性たちにメッセージがあります。

樋笠 「忙しい中で続けられるかな?という不安や迷いもありますよね。でも、やりたいようにやったらいいと思うんです。会社に合わせる必要はありません。新しい発想を持ち、やりたいことを実現していく力がある人に、ぜひ来てもらいたいなと思います。

朝日放送は長寿番組が多い局なので、古くからいるスタッフも多くいます。古い人と、新しいことをやりたい人が組み合わさったら、おもしろいことがたくさん起こるんじゃないでしょうか」

樋笠が入社した当時に比べて、今は制作の現場にも多くの女性がいます。男女比が半々になるにはまだ時間がかかりそうですが、活躍している女性の後輩が大勢いることに、樋笠は期待を寄せています。女性だから、男性だから、というフィルターはではなく、誰もが「1人の人間」としてさまざまな立場で仕事ができる環境になっているのです。

樋笠 「これからは男性も育児休暇を取るようになっていくでしょうし、徐々にみんなが働きやすい会社になると思います。私が経験した海外研修のような、視野を広げるためのさまざまな活動の支援制度も、当時よりさらに整えられてきていますよ。本当に良い会社になりつつあるなと感じています」

子育てをしながらエネルギッシュに働き続ける樋笠。後ろに続く若い世代のため、そしてこれからの朝日放送のため、彼女は道を切り開いていくのです。