「おちゃらけ」に隠れて探していた息の仕方。「自分は何をすればいいのだろう」

ホームケア土屋東北のブロックマネージャーとして、東北のすべての事業所をまとめ上げながら、デイサービスの新設にも取り組んでいる五十嵐 憲幸。常に鋭い意見と、経験に基づいた知見で事業所を引っ張り、その信頼性の厚さは、スタッフから五十嵐マネージャーの名前が出ない日はないほど。一見、無口で近寄りがたい雰囲気の五十嵐ですが、情に厚いことは知り合った誰もが感じるところ。今回は彼の知られざる気さくな一面を中心にお話しします。

五十嵐 「私は、一言で表すなら『おちゃらけ』なんです。これはおそらく反動から来ていると思いますが。子どもの頃は精神が不安定で、よく夢遊病者のように夜中に家の中を歩き回っていたらしく。同じ夢を頻繁に見ていた記憶もあります。誰かに押し潰される夢や、地面から1mくらいの高さの空中を飛んでいる、というか泳いでいる夢。きっと心に闇を抱えていたんでしょう。今も抱えている部分もありますけどね」

五十嵐は1969年、ラーメンで有名な福島県喜多方市で生まれ、幼くして父の転勤に伴い東京へ。小学1年に喜多方市に戻るも、3年生で仙台に引っ越し、6年生の時分には福島県郡山市に。中学・高校を郡山で過ごします。

五十嵐 「中途半端でしたね。一つのことをやり遂げたことがない。ただブレイクダンスには打ち込みましたね。俗的な男なんですよ。
『ブレイクダンス(原題:Breakin')』という映画を見て、初めてブレイクダンスを知って『かっこいいな!』とね。それから猛練習して、中学卒業前のイベントでは『先生、やらしてくれ!』と頼み込んで、皆の前で披露して。そこで燃え尽きました。きっと私の奥底に、ちょっと目立ちたいみたいな思いがあったんだろうなと」

中学時代、サイクルロードレースにも出場していた五十嵐。自転車から始まり、高校に入るとアルバイトを始め、バイクに乗り換えました。

五十嵐 「親が厳しくて、自分でお金を稼げるようになるまでは完全に押さえつけられた幼少期だったんです。バイクは、ガソリンと時間があればどこまでも行ける。そういう自由があった。ツーストロークで、パンパンパンみたいな音も好きでしたね。一人で飛ばしてました」

人とのつながりを、とても大切にする五十嵐ですが、積極的に人と関わることに嬉しさを見い出せたのは、ツーリング中の経験からだったと言います。

五十嵐 「ライダーはすれ違う時、お互いに指サインで挨拶を交わすんです。初めてバイクで走った時、緊張しながらやってみたら、向こうも返してくれて。ざわざわしましたね。その時の感動を今でも覚えてます。大人の世界に入って自分から声を掛けれたっていうね」

今では、余裕のある大人そのものの五十嵐。その経験がコミュニケーションの第一歩だったとのこと。高校卒業後、五十嵐は東海大学文学部に進み、束の間の大学生生活を送ります。間もなくして父親が他界。五十嵐は入学後半年で中退、郡山に戻りました。

父の引いた滑走路の途切れた先に、見つけた介護という着地点

故郷に戻った五十嵐は、父と同じく、1989年に郵政省に入ります。

五十嵐 「ちょうどバブルの年で、これは不動産屋だなと思って宅建を受けたんですが、それに落ちて挫折。税理士も考えて、税務も受けたんですが、国家公務員試験で受かったのが郵政の外務員試験だけだった。これは父の要望でもあったんですが。
採用先は東京で、外勤の配達員をしながら、内勤に入り直そうと勉強しました。1年後に試験に合格して、いったん退職、地元の郡山で内勤を始めました」

郡山に戻った五十嵐は、主に夜勤で仕分けを担当。日中は、スキーに精を出したと言います。

五十嵐 「福島にはスキー場がたくさんあるんです。当時は、先輩に連れられて、よくスキーに行きましたね。1シーズンで20~30回、スキーに打ち込みました。仕事では最初の10年は仕分けと郵便窓口業務。その後、総務課に行ったんですが、机にずっと座っているのが本当にストレスで。当時結婚したばかりの25、26歳だったんですけど一気に白髪になってしまい。見兼ねた先輩に法人営業に誘われて、そこからはずっと営業でした」

折しも郵政民営化で、郵便局の大改革が行われた時代。市場原理の導入の動きが高まる中、五十嵐は、企業向けの「ゆうパック」のソリューション営業に励みます。

五十嵐 「余計なコストをかけずに利益を上げる企画提案ですね。今となっては古いのかもしれませんが、ジャストインタイム思想に基づくサプライチェーンマネジメントやマーケティングの効果的な活用方法などのプレゼンをしていました。
コミュニケーションを取る仕事がしたかったので、楽しかったですね。実は父がかんぽ(郵便局の簡易保険)の営業でしたので、私もそこに入りたかったんですが、そちらには回されず。でも結局、法人営業課に移れたので不満はありませんでした」

しかし、五十嵐は結婚前から郵便局を辞めたいと、そう望んでいたと言います。

五十嵐 「独立したかったんです。法人営業よりもリテール営業に魅力を感じ、保険代理店を考えていたんですが、妻の両親に『郵便局辞めるんだったら娘はやらん!』と言われて、致し方なく。子どもも生まれましたしね。けれど、当時の転職年齢ギリギリの40歳手前で管理職の話が持ち上がり、ここまでだと」

独立志向の強い五十嵐。20年勤めた郵便局を辞めた後、介護業界へと足を踏み入れます。その理由は……。

五十嵐「さすがに40にもなると新たに手に職と思っても難しく。介護なら、経験を積めば独立して起業もできるし、古来からあるものなので、やれるかなと。それにもともと困ってる人がいると、何か力になりたいと思って、いてもたってもいられないというか。自分にできることはないのかというのを常々考えていたので、介護はぴったりなんじゃないかなと」

20年にわたる郵便局での勤務から介護に転身した五十嵐。そこには新たな世界が待っていました。

突然の病と「なんでもとりあえずやってみる」という姿勢が活きた介護の世界

2009年、介護業界に入った五十嵐。家族のいる郡山市から単身横浜に。通所介護と有料老人ホームがセットになった施設に就職します。

五十嵐 「入り口はデイサービスで、後に有料老人ホームに移りました。そこから、急速に介護技術が上がりましたね。必要に迫られて、夜勤やユニットでの一人対応をこなすうちに、雑ながらもスキルを磨いて。給料は前職と比べて大幅に下がったので、バイトを3つくらい掛け持ちしていました」

デイサービスでの仕事とバイトに明け暮れていた2010年春、41を迎える年に五十嵐はある異変を感じることとなります。

両掌に痒みと水疱、痒みに耐え切れずかきむしると剥けていく皮膚。

五十嵐「最初に脳裏をよぎったのは『しまった、入浴介助で白癬がうつったか』ということ。すぐに同僚に勧められた皮膚科に向かいましたが、診断された病名は初めて耳にする『掌蹠膿疱症』というものでした」

ドクター曰く、「原因不明の病気だけど、義歯などによる金属アレルギーや虫歯、歯槽膿漏などが考えられている」。

皮膚治療と並行して、歯の治療もすることになった五十嵐。後に知ることになる「ビオチン治療」のお手本のようなビオチンとミヤBMを処方され、医院をあとにしました。

そしてその頃、五十嵐はデイサービスから有料老人ホームに異動。しかし突如、介護の世界を離脱します。

五十嵐 「老人ホームで認知が進んだ方に初めて会ったんです。認知症に対する理解も全くなかったので、当時は『なんだ、この人は』と思っていて。それが日々続くので、冗談じゃないと」

施設から飛び出た五十嵐は、独立も視野に、白物家電修理の仕事に就きます。コミュニケーションにうんざりしていた中、一般家庭に出向き、黙々と修理をする日々。しかし、客から理不尽な要求が多すぎて、介護の良さを思い直し、元の施設に舞い戻ります。

五十嵐 「それ以降は、介護の仕事に不満を抱いていたことは基本的になくて。結局、合ってるんでしょうね。老人ホームは、入浴や食事介助に加えて、オムツ交換がメインになってきますが、それも利用者によって違っていたりして、技術的に『介護って、こういうことなんだ』というのが改めて分かったんです」

施設で五十嵐は利用者の気持ちに寄り添おうと、試行錯誤を繰り返します。

五十嵐 「オムツも使い方によっては拘束の一種だと思います。排泄介助を面倒くさがって『オムツの中に排泄をすれば』と簡単に言うヘルパーもいますが、ちゃんと用を足したいと思うのが人というものです。
そこで、お年寄りの気持ちを知るために、横浜から郡山に帰るときに、オムツをして高速バスに乗りました。けれど、できないんですよ。しようと思っても出せない。結局、自宅に着いて、オムツを穿いたまま家のトイレに座って、ようやく出せたんです。経験して初めて分かりました。嫌なものは嫌だって」

次第に腕は上がり、信頼も得る中、五十嵐は施設長に就任。しかし、入社7年後、離れて暮らす家族を想い、スムーズな往来を考え、施設を退職します。

五十嵐 「掌蹠膿疱症を患っていたことも転職の大きな要因でしたね。完治しないどころか、症状は悪化の一途を辿っていって」

介助の際には10~30%の人が合併するという掌蹠膿疱症性骨関節炎。その激痛に悩まされ、五十嵐は環境を変えるべく、重度訪問介護会社に転職しました。

五十嵐 「華やかな経歴の若い社長で、『今はこういう若い人が介護業界を引っ張っていかないと成長ないな』と、なんとなく興味を持って門を叩いたんです」

東京でのヘルパーからスタートし、すぐさま能力を認められた五十嵐はコーディネーターとしていくつかの現場を任されます。しかし、そこで思わぬ事態に。

五十嵐 「初めて24時間の現場を立ち上げたんですが、自費の発生するところで。けれど、請求しても全く支払ってくれないんです。その交渉も苦労しましたが、そのうち私にクレームも付けてきて。結果、その現場を離れることに」

入社半年後、五十嵐は関西に異動し、会社の全国展開に向けて、大阪、兵庫、京都の事業所を立ち上げます。

五十嵐 「メンバー3人でスタートした大阪の事業所では、どうにか現場を回せるようになったものの、バックアップ体制までは手が回らず。そんなとき、ボクサー・井上 尚弥選手の祝賀会に友人から招待されたんです。神奈川で開かれるというので、現場を調整して夜行バスに乗って喜び勇んで行ったんですが……。神奈川に着いた朝の5時に電話が……。支援に入る予定の人が体調不良で、新幹線でとんぼ返りです。一応、井上選手とは写真を撮ってもらいました」

コーディネーターの重要な仕事であるバックアップ業務。そのリスクとして、五十嵐の不運なエピソードは今なお語り継がれています。五十嵐は関西異動から半年後、北海道に渡り札幌、旭川の事業所を、そして東北では、宮城、山形、福島、岩手、秋田、青森、新潟と、次々と事業所を立ち上げていきます。

何も「やり遂げたことのない」少年は、他者の境遇を感じ取る大人に

日本各地を駆け巡る仕事はとても気に入っていたという五十嵐ですが、東北に戻った頃辺りから徐々に変化が。

五十嵐 「売上、数字。それをきっかけに独立の準備をしようと考え始めて」

しかし、五十嵐は独立の道を選ばず、世話になった人に恩返しをしたいと、その人が立ち上げた株式会社土屋に転職。ブロックマネージャーとして東北の管理を任されます。

五十嵐「困っているアテンダントがいたら車を走らせる。それだけです。誰しも直属の上司には言えない悩みがある。その上司に対する不満だったり、体制に対する不満だったりがあるので。飛び越えて、相談に乗っています。
私のモットーは、『いつも笑って過ごす』。介護でも、時には黒子に徹し、時には親友のように熱く語り、時には家族のように喧嘩したり心配したり。そんな介助の中で得るクライアントの愉悦が自身の喜びになる。それを感じて私も笑って過ごせます」

そんな五十嵐の信頼の厚さは、次のエピソードでもうかがえます。

五十嵐 「東北ブロックにはサブを務めてくれているエリアマネージャーがいるのですが、彼が日帰りで訪れていた秋田から戻って来る時に、急に電話がかかってきて、『相当ヤバいです』と。雪で立ち往生したらしく、すぐに仙台から車で救出に向かいました」

五十嵐は車を走らせながら、アテンダント達に想いを馳せたとのこと。

五十嵐 「ものすごい雪の量で。こんな雪の中を、いつも支援に行ってくれているんだと。ぐっときますね。それでも支援が滞らないのには、雪国のやり方があるんでしょうけど、頭が下がります」

「福祉の総合商社」を目指すという社の方針の下、五十嵐は介護保険事業の一つであるデイホーム土屋の立ち上げにも奔走します。

五十嵐 「経験があったので、デイサービスの運営を任されましたが、前面には出ないようにしています。デイホーム土屋の立ち上げや全国展開、方向付けに携わっています。立ち上げたデイホームの一つは、古い住宅を借りたもんで排水溝が劣化していて、修理代がかさむことが分かって解約。今は、宮城のたいわに移した施設をどう動かしていくか、その思案段階ですね」

長年悩まされていた掌蹠膿疱症にも徐々に改善の兆しが。関西に移住した当時、デイホームの実質1号店であるデイホーム土屋吹田のある大阪・吹田市で、評判のクリニックに通院したのが効いたそう。

五十嵐「そこから徐々にではありますが症状が改善されて、ここ1年ほどでほぼ完治に近いような状態にまでなりました。この病気に悩まされている人たちは全国に10万人以上いるんです。車イスを使用したりして、日常生活もままならずに大変な思いをしている人もいる。そうした中で回復し、健康体で仕事ができることのありがたみを感じています」

現在、株式会社土屋でさまざまな事業に携わる五十嵐。会社の将来について、こう語ります。

五十嵐 「まずは介護業界のリーディングカンパニーになっていければと。そのための取組みをしていきたいですね。そして、介護の質を上げていく。土屋には胸に響くようなミッションビジョンバリュー(MVV)がありますが、そのことだけ考えて仕事しててもいいぐらい、あれがすべてだと思っています。だから、常にそこに立ち返りながら、社長の思い描く会社の理想像を忠実に具現化していきたい。
社員全てがそういう意識で、きっちりと本質に立ち返って、同じ方向を向いていければと。そうした力が集結すれば会社が成長するスピードも上がっていくでしょうし、正しい方向に向かうと思っています。基本なくして応用なし。左を制する者は世界を制するんです(笑)」

最後に、五十嵐より、介護の仕事をしようかどうか迷ってる人に向けてメッセージを。

五十嵐 「効率よく楽して稼ぎたいという人が、やっぱり多い。でも世の中に楽な仕事はないと思いますし、どんな事でも本気でやったら楽じゃない。ただ、本気でやれば結果的に楽しくなると思うんです。考え方を変えるのが大事です。楽しめる仕事に自らしていただければと思いますし、そうできる仕事が介護の仕事と思います。
誠実に真剣に、そして親身になって仕事と向き合うと、クライアントは喜んでくれる。そして、その喜びの中に、自分も喜びを見出すことができると私は思います。なので、そういった意識で臨んでいただけたら嬉しいです」

「人生に無駄はない」という言葉を耳目にかけはするものの、実感としてそれが役立つ場面が実際いつ来るかはわからないものです。

「役に立つ」、「これで安心」という太鼓判にはてなマークがつく昨今、五十嵐がそうであったように、迷いの中で何かやってみた経験と実感が、思いもよらない場面で自分や誰かの支えになることがあります。

私たちが生きる人生や社会の現実は、まさに不確定不定形そのものであり、その中で、「最初から迷っているのだ」と肚の座っている五十嵐は、迷いや困難に直面した同僚たちと、迷いを楽しむかのように確実に、歩みを進めています。