初めて知る介護の世界~泣いてばかりの時代から介護が生きがいになるまで~

石原志保が当社に入社したのは2021年6月。これまでの高齢者介護での経験が25年に及ぶことから、石原は当社の関連会社である土屋ケアカレッジの講師として採用されました。

現在は、故郷の岡山県で重度訪問介護の現場に入りながら、重度訪問介護従事者養成研修統合課程で研修しています。

一方でシングルマザーとして、長らく東京でも介護に携わってきた石原。彼女の介護人生の始まり、それは息子の一言でした。

石原 「長男がまだ2歳の時、突然『保育園に行きたい』と言ってきて。それで仕事を探し始めました。次男はまだ赤ん坊で、『とにかく保育室のある職場を』と、見つけたのが病院です。でも、介護の仕事だとは知らなくて、最初に院内の光景を目の当たりにした時は異世界でした」

重い認知症と終末期の方が生活する病棟に足を踏み入れた石原。そこで初めて、ここが「療養型医療施設(老人病院)」だと知ったのでした。

石原 「まだ介護保険制度もない時代で、狭い廊下に、脱着型のテーブルで体を車椅子に固定された何十人もの人がずらっと並んで同じ方向を見ている。黙ったまま無表情で。この世界は何なんだろうと。初めの1週間は匂いでご飯も食べられませんでした」

介護士となったものの、石原は5年間、「今日辞めよう、明日辞めよう」と、日々考えていたと言います。ただそれは、重労働や人間関係のストレスではなく、利用者への極度な共感でした。

石原 「ご利用者やご家族が『どうして私が……』『どうしてうちの親が……』と言うのを聞いて、毎日一緒に泣いてばかりいました。そうした時、ふと思うんです。なんで他人のことでこんなに悲しんでるんだろう、どうしてこんなに苦しいんだろうと、ずっと葛藤していました」 

しかし5年目を迎える頃、職場に変わった性格の介護福祉士がやってきます。「あの人でも資格が取れるんだったら」と、石原はがぜんやる気に。

石原 「そこで初めて勉強したんです。介護とは、本来の介護実技とは、というのを学んでいくうちに、仕事に対する姿勢を見直していって。そうすると、いろんな発見があって、利用者が人間らしく生きるためのお手伝いをすること、そしてそれに付随する感情、これらを区別できるようになっていったんです」

奮起して介護福祉士を取得した石原ですが、プライベートでは大きな変化が。

石原 「離婚したんです。その時、長男は9歳で、次男は7歳。けれど、この頃から仕事がとても楽しくなってきました。自分の中のハードルをすごく下げたんです。ご利用者が1日3回笑ってくれれば、それで満点だって。

すると目標を達成できる日数がどんどん増えて、仕事を始めて9年目にはこんなに楽しいし、学ぶことがまだまだあるし、だったらこの仕事を一生続けようと、そう決めました」

学びと気づき、そして猛勉強の日々

療養型医療施設での勤務の中で、彼女は、介護がどうあるべきか学んでいきます。

石原 「その施設はもともと精神病院だったんですが、総師長が意識の高い人で、抑制を一切しない方針を取っていました。抑制は人権の迫害であり、許されるべきではないと。メディアでも発信し、総師長の働きで『抑制禁止法』成立にも結び付きました。

だから私も、すぐに抑制しようとする安易な行動にはとても苛立ちます。抑制しなくても介護はできるよと。そのために、職員全体で試行錯誤を続けながら、抑制しない介護をずっとやってきたんです」

療養型医療施設での就労中に介護保険法が始まり、マニュアルの作成やケアプランといった書類整備、事故防止委員会などに携わった石原。そんな中で、介護に対する考え方も変わっていきます。

石原 「それまでは排泄介助や食事介助をルーティンとしてこなしていましたが、その合間に利用者を観察するようになり、一人一人に目標を立て、それをいかに達成できるかを考えるようになりました。

例えば歩けるようになるのが目標だったら、排泄介助の際にも全介助を止めて、まずはつかまり立ちをしてもらおうとか。理学療法士や作業療法士、言語聴覚療法士などとの連携も取るようになりました」

しかし、療養型医療施設で9年半が経とうとする頃、石原は体調を崩して退社。デイサービスにてパートで働き始めます。

ケアプラン作成の経験を買われ、生活相談員として採用された石原は書類整理に没頭。多くの書籍を読むなど自己流で学びながら通所介護計画書や個別機能訓練計画等を次々と仕上げていきます。

業務時間外でも、ひたすら仕事に明け暮れる石原ですが、1年後、正社員への復帰を考えて訪問介護事業所に就職。サービス提供責任者となりますが、ここで思わぬ困難にぶつかります。

石原 「研修やヘルパーさんの同行指導をする際に、専門用語など、教え方を知らないことを実感しました。それまでは、見て覚えていたので。きちんと説明ができて納得してもらえる言葉を身に付けるために猛勉強しましたね」

石原はなんと、社会福祉主事、福祉用具専門相談員など10以上の資格を取得、日本在宅褥瘡創傷ケア推進協会のコメンテーターや、社会福祉協議会の主催する認知症ケアの講師としても活動します。

さらに、介護実技やコーチングの研修など、自分の時間のほぼすべてを仕事や学習に充てる毎日。現場では、ターミナルの利用者を担当していましたが、「依頼は断らない」主義の先輩の下、さまざまな困難を抱える方を積極的に迎え入れ、マンツーマンで利用者と関われることに幸せを感じていました。

しかし、3年が過ぎようとする頃、次第に訪問介護自体に限界を感じるようになっていきます。それには、介護を始めた時から付きまとう、看取り(ターミナルケア)の問題がありました。

シングルマザーで生き抜いていく~ターミナルケアの試練を超えて~

施設では利用者のほとんどを看取ってきた石原。初めは後悔だらけだったと言います。

石原 「ああすればよかった、こうすればよかったと、いつも思うんです。『また明日ね』と言って、翌朝に亡くなられていた方も多いです。だから、なんとか時間を作って話を聞くようにしました。そばで手を握りながら、笑顔になれるようにって。その瞬間だけは苦しみも痛みも悲しみもないと思うので。

この方にとってはこの一瞬が最後かもしれない、という気持ちで関わるようになってから後悔は減りましたが、『最期は家で』と仰られていた人は多く、心に引っ掛かっていました」

そのため訪問介護では、自宅で最期を迎えたい方々のサポートを全力でしてきたという石原。

最初は満足感があったと言いますが、独居の方や、ご家族の介護疲れが限界に来ている方、徘徊があっても入所待ちを強いられている方、ケガで動けない方は、ヘルパーがいない夜間はどうされているのかと次第に不安がつきまとうようになっていきます。

石原はその打開策を見つけようと奔走。訪問介護を辞めて、在宅でありながら宿泊もできる通所介護事業所に入社します。

石原 「ここでようやく心が落ち着きました。何かあるときは宿泊してもらってお世話をし、また自宅に戻ってもらえる。通所介護を利用しながら、他の業態と連携を取れば、在宅で踏ん張れると。ここでは7年半、働きました。1事業所を預からせてもらってましたし、骨をうずめるつもりでしたが、予想外のことが起きてしまって」

石原は思いがけず妊娠、長女を出産します。そこから、シングルマザーとして、再び仕事と子育てに奮闘する日々が始まります。子連れ勤務の了承など多くの特例をもらった石原ですが、仕事を続けるうちに次第に長女の健康面に異変が見られるように。

石原 「過労だと医師に言われました。長女は、働きづめの私と同じような生活をしているため休めなかったんです。このままではだめだと思って、息子たちの独立を機に、またちょうど岡山の会社からお話をいただいたので、故郷へ戻りました」

石原には、これまで2人の息子を育て上げる中で、母親らしいことをできなかったという思いがありました。

石原 「私が仕事にのめりこんでいたので、学校の行事にもそれほど参加できず、息子たちからすると、我が家は母親がいない家庭だったと思うんです。地域が協力的だったので助けられましたが、母子家庭としての差別的な扱いも多く受けました。

通勤時間が長すぎて職場に泊まり込むことも多かったですし。勝手に育ってくれた息子たちにはほんとに感謝です。しかも家事全般ができる子になってくれて(笑)。ただ、それもあって、長女には子どもらしい生活をさせてあげたいと」

女手一つで育ててくれた母の背中を見ていた長男はその後、看護師に。調理担当の次男は飲食業を経てIT関係に。石原は「うちの息子たちは宇宙一」と胸を張ります。

重度訪問介護の世界~これからの介護の在り方~

2017年に岡山にUターンした石原は、有料老人ホームの施設長などを務めていましたが、施設側から子育てへのサポート内容が変わったことをきっかけに転職。2021年6月に株式会社土屋に入社しました。シングルマザーとして働く懸念が払拭できたからだと言います。

石原 「学校の呼び出しや発熱などで急に仕事に行けなくなることはたびたびありますが、土屋の面接時に、『その辺はバックアップするので、ひけめは全く感じなくていいです』と言ってもらえました。それで、頑張らせてもらいたいと」

入社後、石原は初めて重度訪問介護に触れ、介護保険法と障害支援制度との大きな違いに当初は驚いたと言います。

高齢者介護は行政が企画・実現したものなので、介護士主導になりがちですが、一方で障害者介護は、障害当事者の運動から生まれたものです。そのため、あくまでも介護利用者の意思と指示が絶対とされる利用者本位の介護となります。

研修で石原はそれを学び、現在、当事者本位の姿勢で、脳幹部出血後後遺症障害の方、脊椎損傷の方、お二人のクライアントの支援を行っています。ご利用者のこだわりで、しばらく移乗させてもらえなかったりしながらも、楽しく仕事ができていると石原は感じています。

石原 「90%が大変でも10%の満足感があれば、100%楽しいと思えるんです。ご本人のこだわりに関しても、それができるようになってスキルが上がったり、その人を知るきっかけにもなる。それに毎日話をして、一歩ずつ歩み寄れるという感覚がすごく楽しいです」

根っからの現場好きの石原は、自分が教わってきたことを次に伝えることが、ご恩返しだと話します。そんな彼女が目指しているのは「ありがとうを言われない介護」。

石原 「介護の仕事って、決して『ありがとう』って言われる仕事ではないと思ってるんです。初めて会った介護者の前で服を脱いだりすることって本来は拒否したいもの。けれど、『ありがとう』と言ってくださるのは、感謝の気持ちと表裏一体でひけめがあるんじゃないかって。

だから、例えばご本人が必要とするものを渡してもらったのではなく、手を伸ばしたところにそれがあって、自分の意思でできたと思えるような、さりげないフォローができる介護をしたいなって」

介護と共に歩んできた石原。介護の良さと必要性について、熱く語ります。

石原 「まずは、人の人生に関わらせてもらう仕事なので、すごく繊細でありながらも、やりがいのある仕事です。以前、同僚が『こんな面白い仕事はない。同じ職場で同じ人と働くのに、同じ日が1日もない。毎日がアトラクションのようだ』と言っていましたが、本当にそうです。

また、ほとんどの方が今後、自分が介護される側になっていく中で、今行われている介護が自分が受ける介護になると思います。それをよりよいものにするためにも、とても重要な役割を担う仕事だと感じています。

重訪に関しては、私もまだまだ勉強不足で、大それたことは言えませんが、認知症の方でも障害の方でも、街なかで当たり前にすれ違えれる社会になればいいなと思います」

今までのやりがいを継続しながら、重度訪問介護でのやりがいを模索する石原。これからも、よりよい介護を目指して、クライアントに笑顔をもたらすために、日々仕事と子育てに邁進していきます。


~エピローグ「小指の指輪」 ~

仕事ができなくて苦しんでいた時期、泣いている私にある利用者がこう言ってくれました。「私たちは人の手を借りないと生きていけない体になってる。でも幸せは感じていたい。幸せを感じるときは、私たちのお世話をしてくれているあなたたちが幸せだと感じた時。だから、お願いだから、あなた幸せになってね」って。今もまだその言葉が根底にあります。

お世話をするだけではなく、自分自身が幸せでいること、笑っていることで救われる方もいらっしゃるんだと。だったら「よし、私も幸せになってやろう」と。

その方の写真は今でも持ち歩いています。左の小指に付けているリング、数百円の安物ですが、その方とこっそりペアで買ったもの。これだけは何を言われようと、介護を続ける間は外す気はないです。

from石原 志保