比叡山の修行と法律相談
高木 「僕は、田舎のお寺の子なんです」
高木は、祖母も父も僧侶という家庭に生まれました。長男であったこともあり、厳しく育てられたといいます。
高木 「『お兄ちゃんはきちんとしなさい』というのが家庭の教育方針でした。僕は 4人兄弟の長男だったので、本当に小さいころから父といっしょにお経を上げたり檀家さんを回ったりしていました。このころから、『人の役に立つ』ということの大切さを刷り込まれていたのかもしれませんね」
一方、進路は高木自身の選択に任されていました。
高木 「お寺を継ぎなさい、とは言われませんでした。高校時代は、インディ・ジョーンズにあこがれて『考古学者になりたい』と言っていた時期もあったくらいです(笑)」
しかし、高校2年生のときに比叡山延暦寺へ修行に行くことに。
高木 「継げとは言われませんでしたが、お坊さんになるための教育はさせてもらいました」
そして高木は、この比叡山の修行で「人の役に立ちたい」という気持ちが決まったといいます。
高木 「正直、比叡山の修行は地獄のようでした。脱サラした人や大学生など、修行に来られている人はさまざまですが、大の大人がつらくて泣いていました。 1日中正座してお経を唱えていると、泡を吹いて倒れてしまう人もいる。時計もない、電話もない。夜中の 2時に起きて水風呂を浴びて、夜中に比叡山を歩き回って、くたくたになって戻ってきて護摩修行。
極限まで追い詰められました。指導係の阿闍梨(あじゃり)に『起きろ!』と怒鳴られたこともありました。でも、なぜなのかわからないのですが、この修行で自分の中の何かが外れた気がします。苦しい経験でしたが、比叡山で『人のために生きなさい』と言われたように感じました」
ある種の“悟り”を開いたかのような経験をした高木。大学では法学部を選び、サークルでは無料法律相談で各地を回りました。
高木 「困っている人の問題を解決してあげたいと思い、町役場にお願いして会場を貸してもらって、いろいろな場所へ行きました」
無料法律相談でしたことは法律の“相談にのる”というよりも、“話を聞いてあげる”ことがメインだったと高木は振り返っています。
高木 「もちろん法律のお話もしました。でも、相談に来られる方は話を聞いてもらって満足するところがあります。相手の懐に飛び込んで、感情に向き合ってあげる、寄り添ってあげる、大切なのはこれなのだと感じましたね」
高校時代の修行と大学時代の法律相談。一見、つながりがなさそうに見えるふたつの経験は、高木のその後のキャリアに大きく影響しました。
高木 「僕はハートを大事にしています。涙もろいし、困っている人や悩んでいる人がいたら、何かしないと気が済みません」
ハートで人に飛び込んでいく高木のスタイルは、学生時代に形成されたのです。
債権管理と事業再生
2001年に大学を卒業し、高木は政府系金融機関(中小企業金融公庫)に入庫しました。ここを選んだのは、長期金融を通して世の中に貢献したいという想いからでした。
入庫後、高木は法人融資を担当しますが、営業を経験して3年経ったころ、畑違いの債権管理業務をやりたいと考えるようになります。
高木 「営業で担当していたのはもちろん中小企業だったわけですが、オーナーさんの経営哲学だったり、人生観であったり多岐にわたる貴重なご経験を教えていただいたことは大きかったと思います。
順調な会社もあればそうじゃない会社もある中で、営業という P/ Lの華やかな世界よりも、長年の蓄積である、ある意味地味な B/ Sの改善というテーマに引かれていきました。
営業の方が向いていると思うよ、とも言われました。しかし、自分の価値を『縁の下の力持ち』として発揮していくことに魅力を感じるようになりました」
自ら望んだ債権管理の5年間を経て、高木は当時日本の金融機関では黎明期だった事業再生に携わることになります。2009年のことでした。高木は、事業再生は「総合格闘技」だったと当時を振り返ります。
高木 「再生支援は会社の経営や事業を大幅にテコ入れしなければならない事案が多く、力技でどうにかしなければならないことがしばしばあります。
しかも、さまざまな利害関係が絡んでいて、それをまとめてひとつの方向に持っていかなくてはならないために、繊細な小技も使えなければならない。そういった意味で総合格闘技的だなと感じていました。本当に鍛えられましたね」
高木には、ある忘れられない再生案件があります。それはうまくいかなかった苦い思い出として高木の胸に残っています。
高木 「関係者を集めたバンクミーティグを開いて、買い手のスポンサーもついて金融支援を進めていたのですが、土壇場で社長のオーナーが意を翻して白紙になってしまいました。『この先には売りたくない』と。創業 100年の老舗で、オーナーには『軍門に降りたくない』というプライドがありました。
結局その後、条件変更を続けて延命したのですが、 2年後に自己破産してしまいました」
地域の老舗の看板を守りたい。灯を絶やしてはいけない。血を流してでも救わなければいけなかったと高木はいいます。
高木 「 50人の従業員がいるなら、その先には何百人という家族がいます。
その会社がなくなると、伝統がなくなるだけではなく、何百人という人たちが路頭に迷うことになる。あのとき、どうしてプライドをわかってあげたうえで、理解してもらうまで話ができなかったのか。どうして救えなかったのだろうと、今でも悔しい気持ちが消えません」
3・11と回り道
その後も高木はさまざまな再生支援に携わりました。
高木 「公庫という公的な立場は旗振り役をしやすかったこともあります。『公庫が支援します、皆さんもいっしょにやりませんか?』というスタンスですね。ずっと生徒会長もしていましたから、もともと旗振りが好きなのかもしれないです」
再生支援で全国を飛び回っていた2011年、「東日本大震災」が東北を襲いました。高木は応援で仙台へ赴任することになります。担当していたのは気仙沼でした。
高木 「今も大変な状況ですが、当時は本当にひどかったです。困っている方々をなんとかお手伝いしたいという一心でした」
復興支援は、それまでの再生支援とはかなり「支援」が違っていました。被災された方々に、まず、事業を続けていただくための生きるお金を出さなければいけない。高木は、そのためにできる限りのことをやりました。本来、金融の仕事とは違う、グループ補助金を受けるための旗振りもしました。このように無我夢中でやった復興支援でしたが、高木には心に引っかかっていることがあります。
高木 「当時はあまり悠長なことを言える状態ではなかったのは確かで、まず、復興よりも復旧が先でした。でも、もう少し腰を落ち着けて考えることもできたのではないかと思います。資金を出すことだけが銀行の役目ではない、振り返ってみてそう感じました」
支援するためにはお金という“真水”も必要です。しかし、資金を融資するだけではない仕事がしたい。高木は、金融機関の限界を感じました。
丁度そんな折に、高木は東北の復興支援でご縁があったある中小企業から「手伝ってもらえないか」と声を掛けられます。
高木 「今考えると、事業承継の問題や、この会社をどうしていきたいのかなど、当時お金の貸し借り以外の話をずいぶんしていました。そういうこともあって、一緒にやらないかと声を掛けてくれたのかもしれないです」
ご縁に導かれて高木は金融業界から離れ、その中小企業に入社することを決意。しかしそこで中小企業の大変さを実感することに。
高木 「思い切って飛び込んだのですが、ひとりがやる仕事が多岐にわたっていて、経理から総務、人事といった仕事のほか、震災後の放射能風評問題にも対応しなくてはならず、本当に大変でした」
ここでの経験で、高木は「人」の大切さも実感しました。
高木 「中小企業には、余剰人員なんかいません。一人ひとりが本当に “宝物 ”です。今何を感じて働いているのか、社員と同じ目線で話をして、一緒に汗をかくということの大切さを痛感しました」
中小企業のサポーターになる
中小企業の気持ちを肌で感じた高木は、企業再生や事業承継について以前よりも強い想いを抱くようになりました。
もう一度、金融に戻って出直してみよう──。
2014年、高木は次のステージに新生銀行の事業承継金融を選びました。
高木 「これまでの経験がつながって、新生銀行にたどり着きました。最後は縁の下の力持ちになりたいです。そのための場所として、新生銀行は最適なのではないかと考えました」
新生銀行の事業承継金融は、「廃業支援型バイアウト」と言われています。廃業というとネガティブな響きがありますが、高木は前向きなものだと捉えています。
高木 「オーナーさんに、『今までご苦労様でした。あとは私たちが引き受けますから安心してください』と言ってあげること、これが廃業支援型バイアウトだと思っています。ただの会社の売り買いではなく、オーナーさんや従業員の人生も引き受けます」
高木は、2年がかりでゴールにたどりついた案件を渾身の仕事だったと感じています。
高木 「この案件では、お金のことだけでいうとオーナーさんの希望通りにはなりませんでしたが、“事業を承継していく ”という同じゴールを見続けることができました。事業承継は金融の知識だけではなく、法律や税務、労務についての知識も必要です。
加えて組織についても考えていかなければならない。たくさんの関係者がいる中で、全員が納得するゴールを見つけていくのは大変ですね」
半年程度でまとめていくのが通常のスケジュールですが、2年の間にはさまざまな紆余曲折がありました。
高木 「 2年というのは長すぎで、途中どうなることかと思いました。なかなか投資家を見つけられませんでしたが、あきらめずに提案し続けました。この人のために何かしたい、と思っていたので途中で辞めるという発想はなかったです。
2年の間に、僕の呼ばれ方が “新生銀行さん ”から、“高木さん ”に変わりました。そういう関係をつくることができたことに僕は満足しています」
そんな高木が大切にしているのは、“ずっとそばにいる”こと。
高木 「 M&Aは投資家を探してお見合いして、それがうまくまとまるか、もうかった、もうからなかったと、なりがちです。事業承継したいけれどもいろんな理由で難しさを感じている企業はたくさんあります。
そういう、これまで金融の手が行き届いていなかったところに光を当てるのが僕の仕事だと思っています。事業を承継するというみんなのゴールに向かって、いつも寄り添うことが僕の価値かもしれません。ちょっと暑苦しいヤツですが(笑)」