やりたいことをひたむきに。負け続けても継続できた理由
沖縄県出身の宮国。幼少のころは、自分が興味を持ったことには何にでも夢中になる子どもだったと言います。
高校に入るころには、当時人気だったテレビ番組の影響でボクシングに興味を持ち、ボクシング部へ入部しました。
「ボクシングは、リング上での華やかなイメージとは裏腹に、普段の練習では単調な反復練習が求められます。そこで、どれだけ自分を追い込んでやり続けられるかが勝敗を左右するんですね。
試合で殴られれば痛いし、減量もつらい。入部当初は20名ほどいた部員も、3年後には私を含めて3名だけ。ほかの2人はそれぞれの階級でチャンピオンになりましたが、私だけが結果を残せず惨めな気持ちを味わったのを覚えています。
それでも、3年間ボクシングを続けることができた。やりたいことを、苦しみもがきながらも、やり抜いた。高校生活において、それだけは私の自信となって、今も心の深い部分に根付いています」
▼ (YouTube)デビュー戦の相手は県チャンピオン。 まったく歯が立ちませんでした。青が宮国
高校卒業後は東京に出て、新聞奨学生として販売所に住み込みで働いていた宮国。空いている時間で予備校に通い、大学進学をめざして勉強に励んでいました。
「限られた時間の中での勉強でしたが、やればやった分だけ伸びていく勉強の楽しさを初めて感じた瞬間でした。1年間の新聞奨学生期間を終えた後、しっかりと勉強に専念するために沖縄に戻ってもう1年勉強をし国立大学への合格を果たしました」
大学では手に職をつけられるスキルを学びたいと考え、英語を専攻。大学での勉強以外にも、週末は米軍基地に通って生きた英語を学び、また夏休みや休学を利用してフィリピンとカナダへ留学しました。
「英語を学ぶ中で、いろんな場所に行ってさまざまな国の人たちとの出会いを通して、自分の価値観と世界観が広がっていく感覚におもしろさを感じました。そこで、将来は英語を使って海外で仕事をしたいと考えるようになったんです。
そして、就職活動では英語を活かせて、海外駐在のチャンスもある商社・物流業界に絞って企業を探しました。最終的にいくつか内定をいただいた中で、総合商社伊藤忠商事の物流を担う伊藤忠ロジスティックスに就職しました」
会社員をリタイアして原付カブで日本一周。そのまま海外に飛び出してチャンスをつかむ
宮国が東京で会社勤めをするようになって2年半が過ぎたころ、このままで良いのかと疑念を抱くようになりました。
「毎朝満員電車に揺られて通勤し、週末を楽しみに平日を耐え忍ぶ。そして、日曜の夕方にはまた憂鬱になる。これが何年続くのか……。そう思うと、行動せずにはいられませんでした」
そこで、宮国は思い切って会社を辞め、50ccのカブで2カ月間にわたる日本一周の旅に出ました。さまざまな出逢いに恵まれた旅を無事に終え、やりたかったことを成し遂げた達成感を得られたと言います。そして、海外で働きたいという想いを強く思い出し、沖縄県が主催する海外インターンシッププログラムに参加。ベトナムへ渡り、日系ベンチャーの人材紹介会社で3カ月間のインターンを経て、現地での就職活動で出会ったのが広告代理店電通のベトナム支社である「電通ベトナム」でした。
「広告業界の知見はまったくなかったのですが、企画を作ったりアイデアを形にしたりする仕事内容に興味を持ち、応募しました。 当時の電通ベトナムの社長が海外で挑戦する若者にチャンスを与えてくださる方で、営業職として入社することができました」
そして、入社1年目に任されたプロジェクトが、宮国のキャリアの大きな転機となります。
「ベトナム初となるホーチミンでの日系ショッピンモールの立ち上げプロジェクトにアサインされました。電通東京本社も関わっての一大プロジェクトで、オープンまでの半年間はクライアント先に常駐して仕事をしました。
広告のこと、ベトナムのことすらまだ良くわかっていない私が仕事をうまくこなせるわけもなく、日々手探りで昼夜問わず仕事に励みました。思うようにいかないこと、わからないことばかりで、唯一できたのはベトナム人スタッフと一緒に仕事を進めること。一緒に席を並べて毎日仕事をし、同じご飯を食べて、仕事終わりは飲みに行ったりもして。
気がつくと、クライアント先でベトナム人スタッフと一番仲の良い日本人になっていました。その結果、スタッフをまとめるマネージャーの役割を担うことになり、オープニングプロジェクトを無事に成功まで導くことができました」
クライアント出向を終えて電通ベトナムに戻った宮国は、自動車メーカーのブランディングとプロモーションを担当。3年目には、立ち上げに参画した日系ショッピングモールのハノイでの立ち上げプロジェクトに、クライアントから指名される形でジョインすることになります。
「ベトナム一号店の立ち上げ現場を知っている宮国さんに、北部一号店の立ち上げをお願いしたい」と、クライアントから宮国の働きが評価されたのでした。
ベトナムでの一大プロジェクトにまたもアサインされ、それがベトナムで担当する最後のプロジェクトとなりました。ハノイでの立ち上げも成功させたところ、家族の事情で地元沖縄に戻ることを決めました。そして、ベトナムでの功績が評価され、電通グループの沖縄支社である電通沖縄に入社します。
ベトナムで過ごした3年間は、身の丈以上の挑戦を通して、自身のキャリアとスキルを大きく飛躍できたと振り返ります。ベトナムを去るときにはベトナム人の同僚からの紹介で、得意の沖縄三線パフォーマンスで、ベトナム現地のテレビ出演も果たしました。
▼ (YouTube)ベトナム国営放送の日越友好を祈念する番組で“花”を熱唱
背伸びした先に見えてくる景色をめざして
地元沖縄に戻った宮国は、電通沖縄の仕事でも持ち前の英語力と海外での経験をいかんなく発揮しました。
「電通沖縄では、沖縄県庁などの地方自治体をクライアントとし、沖縄県のブランディングとプロモーションを国内および海外に向けて行う自治体担当営業を任されました。今でも印象に残っているプロジェクトは2つあります。
まずは、沖縄の伝統文化をアメリカ東海岸にプロモーションするプロジェクトで、ワシントンとニューヨークでアメリカ初となる沖縄紅型展の開催です。現地の大学や美術館、航空輸送担当者との交渉や、実際に現地に行っての企画・運営を行う中でこれまでの経験をフルに活かすことができ、とてもやりがいを感じました。
もう一つは、2018年に引退した沖縄出身の女性アーティストに協力いただいた沖縄ブランディングBe.Okinawaプロジェクトです。彼女の楽曲を活用させていただいた動画は、全国で大きな話題となりました」
沖縄での業務にも慣れてきた宮国には、次第に今後めざすキャリアが見えてきました。現状に満足せず、もう一段階キャリアップしたいという想いが沸き、新たな挑戦を決意し楽天グループ株式会社へ転職しました。
「楽天では広告営業として、楽天が保有するビッグデータやサービスを活用した広告提案を中央省庁と地方自治体へ行いました。社会インフラ的な側面も持つ楽天グループのサービスを、国や地方自体が抱える課題解決のために提案できることに大きなやりがいを感じていました。
その反面、公金を活用しての事業のため社会的インパクトも大きく、社内外のさまざまなステイクホルダーをまとめる必要があり、大きなプレッシャーと責任も感じました。主に厚生労働省の子育て支援事業やヤングケアラーの社会的認知度向上の事業、農林水産省の農村漁村地域活性化のための農泊プロモーションを担当しました」
本当に大切なもの見つめなおしながら、挑戦を続けたい
楽天に転職したタイミングで新型コロナウイルス感染症が蔓延し、宮国は家族を沖縄に残して東京と沖縄を行き来する生活を送っていました。そんな折、子どもが生まれることがわかり、将来のことを考えて沖縄に拠点を置いた生活をしたいと考えるようになりました。
「リモートワークが普及し出したタイミングで、沖縄に居ながらでも東京の仕事ができるようになりました。家族との生活を第一に考え、沖縄から東京と同水準の仕事がリモートワークでできる会社を探していたところ、PR Tableに出会うことができました。
PR Tableのサービスは、働く人を通して、企業の魅力を伝える採用・広報活動を支援していくというもの。これから認知度を上げて、さらに成長させていくフェーズへ移行するタイミングでお話をもらったので、私のこれまでの経験や知見を活かせると思ったんです。
そして、PR Tableに感じたのは『ワクワクする気持ち』。オファー時に共同代表取締役の大堀 海が『人材業界の電通をめざしたい』と熱く語り、その言葉に強く心を動かされましたね」
こうして宮国は、PR Tableのタレントのひとりとして企業の課題解決の支援をするアカウントエグゼクティブ(AE)を担当することになりました。今後はその仕事範囲を広げていきたいと、熱く意気込みを語ります。
「現状は、記事や動画を制作して情報発信をし、その効果を分析して改善提案をしていくのがメインです。今後はそれだけにとどまらず、クライアントのニーズに合わせてリアルイベントを企画したり、メディアの幅をオンラインからオフラインに広げてたりしていく。たとえば、新聞やテレビ番組へ広告を出稿したり、雑誌とタイアップしたりなど私がこれまで培ってきた広告のノウハウをPR Tableでも実現していきたいですね」
海外や国内でさまざまな実績を積んできた宮国。その経験を活かし、PR Tableのさらなる成長とクライアントの採用課題解決に貢献していきます。